「自由意思の尊重」の美名に隠れた逃げ道の確保
今日も相変わらず気温は低めでした。ただ「低い」ではありません。心持ち温かくなってきています。
今回のタイトル画は、上埜ヒデユキさん (https://note.com/uenomanga )からお借りした。ありがとうございます。
さて、……。
世の中には、自身の主義主張を世に訴えなければ死んでしまう病気の人が一定数いる。この存在を証明するのは難しい。でも、私は肌感覚でそう感じているし、恐らく私のこの感覚を理解できる人も少なからずおられると思う。
彼らの主張は大抵過激、或いは極論であることが多い。だから世間の耳目を集めやすくなる。そのうえで何度も同じことを言い続け、同種の主張を繰り返す。
強い断定口調での発言が続くと、不思議ではあるがその主張を信じ、その人を信奉し始める人が現れる。そのうちに一団のグループができ上がる。
今の社会に生きていて、自身の生き様に大満足という人は多くない。うまくいかない、八方塞がりだという思いを胸に抱えている方も結構おられると推測。
そういうモヤモヤした気持ちがある時に、真実っぽいことを強い言葉で語られたらどうなるか。その主張が過激であるほど、人々の耳にはかえって新鮮に響く。
自身の抱くモヤモヤの原因とは無関係でも、スパッと割り切る言葉はそれ自体が力を持つ。受け手の心に響く。信奉者になってしまうと思考は停止し、彼らの言葉に唯々諾々と従うようになる。
もちろん、そうなる人は少数派であるし、その主義主張がおかしければ反論する人も現れる。それに対して昨今では、ムキになって反論する人は減っている。但し黙ってはいない。
「あなたがそう思うのであれば、それはあなたの自由意思に基づく判断です。私はこれ以上は申しません。私は私の考えに従います」とだけ言って去ってゆく。或いはブロックして議論を終わらせてしまう。
実は、この「自由意思を尊重」という言葉は、使い方によっては毒にもなることに気付いた。もちろん、本来あるべき状態を述べる言葉なので反論できない。でも「最後の選択権はあなたにありますよ」は「どんな結果も、自己責任ですよ」と言っているのに等しい。
もっと言えば「当然結果の責任は私ではなくあなたが負うんです」と言外に言っているのだけど、そこまで意識できない人は結構いるのではないか。
この口上は、反論してきた人だけでなく自分を信奉する人たちに対しても言っていることになる。自分の主義主張を強くアピールしておきながら、その責任はあなたにある、私は免責だという主張。私は不誠実だと思うが、あなたはどう考えるだろうか。
「自由意思の尊重」は、本来自分以外の人たちの考えを大事にする言葉なのに、気がついたら強い主義主張を発言する者の防御壁として化してしまう。まさに諸刃の剣である。
世の中ではあちこちで論争が起こるが、それが起こったらこのような醒めた視点で発言者が逃げ道を作っていないかを確かめるようお勧めする。信奉するのは、それを確認してからでも遅くない。最後はハシゴを外されて、あなたが悪者になってしまわないことを心から願っている。
お読み頂き、ありがとうございました。