しがらみがある=悪い、ではないと考える
ここ数日、ヒンヤリとした空気の中での目覚めが続いています。暑さに参っていた頃、いつかはそうなってほしいと願っていたものの、いざそうなるとそれほど感動したりもしないものですね。
さて、……。
衆議院選挙の公示日が明日に迫った。既に各党も選挙モードに入っている。
現政権を批判する側がよく用いる言葉に「今の政権与党はしがらみにがんじがらめに縛られて、思いきったことができない」というものがある。この「しがらみ」って何だろうと思ったので調べてみた。
ネットで「しがらみ」を調べると、以下のように記載されている。
元々は「1」が原義で川に設置する堰を意味した。例えば魚を捕まえやすくする、渡河できるようにする等の必要があって、川をせき止める或いは水流を弱めるために設置されたものを指す言葉だった。
それが転じて「2」の意味に拡張された。そして今では、この拡張された方の意味で使われることが圧倒的になった。「言葉あるある」である。
ただ、よく考えると「1」の主語は設置した人間。「しがらみ」は目的語に過ぎない。それが「2」では「しがらみ」が主語になっている。「1」ではニュートラルな存在なのが「2」では悪者になっていることに留意してほしい。
川に設置された「しがらみ」は、その目的を果たしているなら有用物として扱われるべき。悪者が前提の意味を持たされるのはおかしいとも感じる。
「何をこだわっているんだ」とお叱りを受けそうだけど、実は「2」の意味に進む前に、世間のしがらみって悪いものなのかの検討が必要だと考える。
人が社会で生きれば、他者との関わりはできる。それには引き立ててくれたり更なる縁を結んでくれたりといった感謝すべきものも多くある。その分、義理や恩、貸し借りも発生する。
それらを意識するのは人として当然で、一顧だにしないのは恩知らずのそしりを免れない。だから、人との関わりそのものは、やはり「1」のようにニュートラルな存在だと考えるべきもの。
それが「2」の意味、即ち「まとわりつくもの。じゃまをするもの」として作用するなら、その時にしっかりと話し合ったり説得したりのプロセスを踏むべきである。それをおろそかにしないのが政治家の本分だろう。
大事なことなのでもう一度。人は社会で生きる限り人との関わりはできる。それが「2」の意味のしがらみとして作用することもあるが、それは話し合いで落としどころを探っていくべきだということ。
むしろ「私は何のしがらみもない」と誇るがごとく言い切る人は、今まで社会の中でどのように生きてきたのかという疑問を感じる。単に実務経験不足を声高に言っているようで、そのキャラに危うさすら感じる。
以上のことから、しがらみの有無ではなくそれへの対処能力・姿勢に注目して判断すべきだと私は考えるが、いかがだろうか。
お読み頂き、ありがとうございました。