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叩き合いは何も生まずただ疲れるだけ

今日はちょっとお出掛けしました。結果として雨雲に追いつく形となり、ちょっと残念です。ザバザバに降られたりはしませんでしたけど、せっかくの休日気分が萎えますね。

さて、……

昨今の何かあれば叩く風潮は、率直に不快に感じている。叩かれないように私も何かをネットに上げる際には、一通りチェックしている。

でも、そもそも自分が何かすることで叩かれるかも知れない……そう思って身構えた状態でいたとする。その状態で大らかな心、豊かな感受性、すくすくとした成長につながるだろうか。率直にかなり厳しいと考える。

このような状態が続けば、弱い個体は潰れてしまう。生き残った個体同士もお互いに叩き合い傷付くような環境では、いずれも疲れ切って生き残っても余力もなく何も生み出せない。

もっとも、例えば「叩かれない極意」「効果的な一撃」と題されたハウツー本が生まれる可能性は否定できない。でも、それらの本は、そもそも叩き合いがなくても必要なものだろうか。

武具は争いがなくなれば無用になる。ただ、簡単にその状況にならない。そうなる前にはかなり激しく叩き合い、これ以上叩き合いを続けるのが無理な状態にまで至らなければ、叩くのを止めるきっかけを得られないと思う。

ここに、人間の業が表れることになる。

このように考えると、叩き合う社会は大したものを生み出せない。人間はその環境下で疲弊し、常に自身の安全確保に汲々とするのみ。それでは新奇性のあるアイデアが湧き出ることもなく、結果として生活の質も下がる一方となる。

そして、逆に「そうではない社会」の繁栄を横目に見ながら、自らはジッと息をひそめるしかなくなる。そういう状態って一般には「この世の地獄」と表現するのではなかろうか。

実は、「そうではない社会」というのは先例がある。それは戦後しばらく経った日本。というのは、日本の戦後復興は米国に守られて朝鮮戦争特需によって引き起こされたもの。国内で叩き合うヒマすらない環境に恵まれたものだと認識している。

とはいえ、そういう好条件が多重に重なるのはやはり稀有なこと。柳の下に二匹目のドジョウはそうそういない。

今の日本社会は、低成長→耐乏生活→大部分の没落によるフラストレーション→叩き合いで発散→低成長、のループに陥っていないかを危惧する。「貧すれば鈍する」流れを自ら加速しているならば、まさに地獄への一本道となる。

叩き合いという非生産的なことに労力を使うのをやめ、明るく前向きに何かを生み出すことに力を注ぐべきである。多くの人が、この当たり前のことに気付いてほしいと心から願う。

お読み頂き、ありがとうございました。

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