「誰もが等しく年を取る」の「年」を厳密に考える
今日は確かに暑かったですね。気温に加えて日差しがまさに夏のものでした。もうちょっと春の余韻を楽しみたかったのですが、無理のようです。
さて、……。
タイトルの「誰もが等しく年を取る」という言葉、これだけは皆平等だという意味で使われるくらい当たり前で、否定するのは難しい。でも、対象とするものによっては違うのではないか、と思っている。
ここでいう「年」は、同じ時間軸の上を生きる者について、時間の刻みが同じことを表している。この点は確かにその通りなので争わない。
でも、皆が同様に老けていくかについてはどうか。例えば50歳、60歳と年を重ねるのに相応して誰もが外見も同様に年を取ったように見えるか、と問われたらどうだろう。これは違うという人が多いと思う。結構個人差が出てくるところだから。
実際、20代で既に白髪が目立つ若白髪の人はいるし、50代でも黒髪の人はいる。更に顔のしわや肌の張り、シミ、風貌、髪型、服装等などさまざまな要素が複合した結果、見た目年齢はかなり幅が出ると感じている。
要は、暦年月の年齢と見た目年齢は異なる。暦年月の年は平等に取るけれど、見た目の年は平等には取らない。だから、その間で乖離は生じてしまう。ぶっちゃけ、年齢以上に老けて見える人、若く見える人はいる。
もちろん、見えるだけであって中身まで若いのかは分からない。ただ、若く見える人の方が長生きするのは医学的に確かめられている。
つまり、死から逆算した時間を考えると、見た目の若さはそれだけ長寿につながりやすいということになる。
寿命に関しては、持って生まれた遺伝子の影響力はあって、それはどうにもならないものでもある。でも、それ以外にも「運動をする、喫煙しない、ポジティブに考える」ことで寿命は延ばせる可能性があるらしい。
喫煙はともかく、運動したりポジティブに考えたりできるのは、やはり若さとの親和性が高いと思っている。このあたりが見た目にも影響していくと考える方が素直だろう。つまり見た目は遺伝子+生き方の結果として捉えるべきだということ。
誰もが年は取りたくない。私も四十肩で腕が上がらず首も自由に動かせなくなった経験がある。あの時はかなり辛かった。今は寛解しているけれど、またいつどうなるかわからない。その他、膝も時々不調になるため、気に掛かっている。
だけど、これを気に病むとストレス源となってまた見た目年齢を押し上げる。それはよろしくないので、気持ちを外に向けるようにしている。
加齢はどうにもならないけれど、できるだけ遅らせる努力はしたい。なお、タニタの体重計によれば、私の体内年齢は実年齢より10歳程度若いので、少しほくそ笑んでいる。
お読み頂き、ありがとうございました。