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打って出たい気持ちと守りたい気持ちの折り合い付けを考える
明日、可燃ゴミの収集が行われます。with ゴミ生活をやっと終えることができます。with コロナは続きますけど。
さて、……。
これまでに私は、独自メソッドの確立について以下の2つの記事を書いている。
警鐘を鳴らす方向で書いてきたのだけど、今回は守る立場に主眼を置こうと思う。
世の中には、〇〇メソッドを開発した人がいる。我々のnote界隈でも読まれる・売れるノウハウをアピールする人がいて、彼らもこの中に入るだろう。
でも、その人がそれ以外の分野でも何か新しいブレイクスルーを生み出したかというと、そういう例はかなり少ないのではないか。
○○で有名になると、それが良くも悪くも付いて回る。ネームバリューを高める一方、意識しないと今度はその成功体験に寄りかかってしまう。
最初に○○に取り組み始めた時には、個人の興味や関心がとても大きかったはず。守るべきものがなく、若さにものを言わせて持てる力と情熱を全力で注げる状態。金がなくてもこの強みは大きい。
そのうち、こうすれば汎用性を持てるというアイデアにたどり着き、それを世に問うことにした。それが当たったから現在の成功がある。でも、実際は周りでうまく行かなかった例、日が当たることなく消えて行った人も多く見てきた。
このような経験をした中で、なお新分野で一から同じことをやる気を持てるのか。それを踏み越えるにはかなりの強い意思が求められる。その理由は以下の3つ。
まず、手元にある成功した○○の分野でも、その名声の維持にはある程度の努力が必要だから。
次に、成功者の安楽さ・快適さを振り捨てるのはかなり辛いことだから。
そして、もし新分野で芽が出なければ、成功した○○の分野についても少なからぬ影が落ちることになるから。
それでも構わないと打って出られる人は、本当の革新者か、やればできる統制感信者か、安逸を居心地悪いと感じるドM体質者のいずれかであろう。
現実的には、多くが打って出ることなく現状維持を志向する。
ただ、いつまでも当初の世に問うたままでもいられない。飽きられてしまうからだ。そのため、改訂を試み(深掘り)たり、拡張して解釈(広範化)したりするようになるが、二番煎じ感は否めない。
これには、そもそものメソッドの限界もあるのだけど、読者側の理解が深化していることも見逃してはならない。つまり、読者側もいつまでも書かれているものを墨守はしないということ。
端的には、自分なりにアレンジする方が多いだろう。個別具体的な事例に対して当てはめをする際には、どうしてもカスタマイズが必要だからだ。
かくて、段々そのメソッドは人の口の端に上らなくなり、埋没していく。問題はこの時にどうするか、である。
私は、ただそれに耐えるのも決して悪くはないと考える。
籠城戦は精神的に辛い。そして「座して死を待つよりは出でて活路を求めん」は勇ましいのだけど、出でた先には既に自分が見てきた死屍累々が転がっている。特に年を取ってから打って出ると、失敗した場合に再起を図れない現実。
やむにやまれぬ思いをどこまで打ち出して、どこで折り合いをつけるか。特に定年前後の者には切実な課題だと考えている。
お読み頂き、ありがとうございました。
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