急な聖人君子化には違和感、それでも議論できる環境は守りたい
夏の雑草、その勢いの強さは天下無双と言っても良いですね。小砂利を敷いた隙間から根を伸ばして土にたどり着こうとする雑草との攻防で、今日は朝から大汗をかきました。
さて、……
今更私が申し上げるまでもない。7月8日の昼も近い頃、奈良で街頭演説中の安倍元首相が凶弾に倒れ、亡くなられた。深く哀悼の意を表するものである。
日本では、死んだ人を悪く言わない風潮がある。「死んだらみんな仏様」という意識が広がっているからだろう。
この点「死屍に鞭打つ」中国とは異なる。
この言葉は中国の春秋時代、楚の伍子胥の復讐から生まれた。彼は父と兄を楚の平王に殺された。呉に逃れて仕え、呉の重臣となりその軍を以て楚に攻め込んだ。そして既に死んでいた平王の墓を暴き、その「死屍に鞭打つ」ことで復讐を達成したのである。
日本人にはこのメンタリティーはない。歴史に名を残す中国人の激しさを見ると、やはり文化が異なるように思う。
とは言え、だからと言ってなくなった人を全て聖人君子のように扱うのは正しくないと考える。少なくとも国会での答弁姿勢は、正直なところ疑問を感じざるを得なかったシーンもあった。
あと首相在任期間の長さは、それだけ日本の経済成長にも影響を与えたということでもある。今の日本経済の世界からの取り残され感について、全く無関係とは言えない。もし無関係だと言える理屈があるなら、ご教示願いたい。
もっとも、在任前後の人間が方向性を誤った、或いは他の誰がやっても大差なかった可能性もある。そもそも、一片の欠点もないとか失敗をしない人間というのはいないのも確かで、この点はモナーだという自覚はある。
今回の事件、私は犬養毅首相の暗殺を思い出す。「話せばわかる」と言う首相に向けて青年将校が「問答無用!」とピストルを発射。 これは後に5.15事件と呼ばれるもの。但し、安倍元首相と異なり、現役の首相であった。
「話せばわかる」は議会での議論を前提とする民主主義を象徴する言葉であり、その提案を「問答無用!」と武器で攻撃して葬り去ったのである。まさに、民主主義の存亡が掛かる事態なのである。
大上段に構えるなという批判は承知。でも、これを小さく受け止めてはならない。このようなことを社会が容認すると、皆自らの思いを口にしにくくなる。議論ができない社会はブレイクスルーも生まれず、発展を期待できない。
だからこそ、そういう社会に逆戻りするようなことは、断じて避けねばならない。
5.15事件の後、日本は軍部への批判が控えられるようになった。よく2.26事件が太平洋戦争へ繋がる軍の独走の遠因であるように語られるが、その萌芽はその前の5.15事件から育っていたと考えるべきなのである。
今回の犯行、犯人は当然法により裁かれねばならない。無法者を法で裁くというのもシュールであるが、法以外で裁くのは恣意に他ならず悪手である。
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