落としどころを探らなくなった社会を憂う
今朝は雨に降られずに済みましたが、昼過ぎから降り始め帰宅時には結構な本降りとなりました。折り畳み傘を持ってはいましたが、バス停までの距離は短いことから覚悟を決めてダッシュ。何とかなりました。
さて、……。
昨今は人と話をして落としどころを見つけようとする人が減ったように思う。多様性が叫ばれる時代になったのに、足元では多様な価値観を認める風潮にはなっていないのが残念。
ただ、総論では賛成なのだろう。でも、多様な価値観を認めつつも、その中で自分の考えが1番だと思い込む傾向が強くなったと考えると分かりやすい。その結果として相手の話を聞かない。だから自分の考えのみが頭にあり、それに固執する。
しかも、考えを伝える言葉はより先鋭化している。小学校で「チクチク言葉」「トゲトゲ言葉」として使わないようにしようと教わる厳しい言葉、攻撃的な言葉が飛び交う。
今の人たちは「窮鼠猫を噛む」「囲師は必ず闕(か)く」という言葉を知らないのかも知れない。追い詰めるのは想定外の逆襲を受けて自分の損害が増えるから、やってはならないこととされる。
ちなみに「師」は師匠ではなく師団の師で軍隊を意味する。袋のねずみだからと勇んで殲滅にかかると、やられる側も破れかぶれとなっていつもより強い抵抗を示す。だから囲みの一部を欠いて逃げられるようにしておくべきなのだ。これは孫子の兵法である。
論破という言葉もいっときほど聞かれなくなったけど、論破された人間が随喜の涙を浮かべて心服することはまずない。恨みを心に置いて、隙あらばリベンジの機会を狙うようになるだろう。
どうもこういう人情の機微を深く考えず完勝を狙ってしまう傾向が増しているように思うのだけど、現実の世の中はゲームとは違う。完勝することはそもそも困難だし、仮にできても完勝すること自体にリスクがある。
莫大な労力を注ぎ込んで完勝を狙い、できてもリベンジされることに備え続けねばならなくなるよりも、話し合ってある程度のところで折り合いをつける方がよいと私は考える。その方が合理的・省力的だからだ。
でも、このように先のことをあまり考えなくなっている風潮に率直に危機感を抱く。
これは、何も自分が深慮遠謀できる人間だと自慢したいわけではない。この程度のことは、かつては自然に身に付いた身過ぎ世過ぎだからだ。
人と人が落としどころを探らなくなると、常に世の中がギスギスしてしまう。これが既に世界的な傾向となっているのではないかと、ニュースを見ていてうら寂しい気持ちになる。
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