「古い価値観」と「古き良き時代」で考えたこと
今日は出社直後から、想定外のミスへの対応に追われました。なおミスの主語は私ではありません。でも、管理職なので放置はできず、担当社員と一緒に考えて何とか対応を終えました……疲れました。
さて、……。
「古い価値観」という言葉には、否定的なニュアンスが込められている。その価値観は今では通用しない→役立たない、と暗に言っているのだから当然そうなる。
一方で「古き良き時代」という言葉もある。これはもっとくだけて言えば「昔は良かった」ということ。
この言葉、私のような人生の黄昏時を迎えた人間が、若く元気で気力横溢していた頃を懐かしんで言うのならともかく、大抵は昔の方が時代の変化が少なくて自分も付いていけたが、今は変化が激しくかつ複雑になって付いていけないことへの諦念から発せられるの方が多い。
この対照的な「古い価値観」と「古き良き時代」という言葉。いずれも今も両方使われる。ただ、同じ人が両方を使うことはまずなく、ほぼどちらかになる。
その根源には、つまるところ各人のポリシーがある、更にそのベースに気持ち・感情があって、それによるというのが私の考え。
私達は普段生きている中で、理屈詰めは少ない。まずは自分の気持ち・感情に沿って考えている。即ち考えのベースには気持ち・感情があるのであって、考えに合わせて気持ちや感情を持つことはない。
価値観も自身の気持ち・感情の集合体としてとらえることができる。そして感情を波立たせず自身の価値観を守るために理屈を作り上げてポリシーとしていると言ったら言い過ぎだろうか。
ただ、社会で発生する問題のほとんどは、考え始める起点で気持ち・感情が関係する。そしてその解決方法を考える際には、できるだけ制約がない状態でいたいと思う。考える自由はもちろん、それを発表する自由がなければ、考えも脳内に留まってしまい、社会に何の影響も与えられない。
実は、ここで矛盾が一つ生じる。古き良き時代にこの自由があっただろうか。
「昔は良かった」と発言する自由は、昔は無制限ではなかった。現政権への批判とも取られかねないからだ。
だから昔は意見の表明にも気を遣ったはずで、このように自由が制限されていた昔の方が良かったと感じる人はまずいないと考えると、「昔は良かった」はいいとこ取りをしているということになる。そういう点でイマイチである。
ちなみに、思考過程で気持ち・感情が関係しないものもある。それは理数系に多い。例えば算数の問題で、太郎君と花子さんの飴の個数が等しくなるようにしてあげたいとは思っても、問題を解く時には設問の指示に従うのみとなる。
ここで、これらの問題では主語が抽象化されている点に留意する必要がある。リアルの太郎君や花子さんの話ではないからだ。我々の生活とは無関係に存在する抽象的な人ということになる。
このことによって、理数系の問題では右系の人が解いても左系の人が解いても答えは一つで変わらないことが担保されている一面がある。
なお、よくよく考えれば、技術の進展を基本的には止められない。よって世の中に変化は生じるものだと考える必要がある。その変化に付いていく努力は、やはり怠ってはならないし、「昔は良かった」では解決しない。
お読み頂き、ありがとうございました。