自己紹介~RIKU 【能登半島地震被災/97年/喫茶&ホテル】
初めましての方もいらっしゃると思うので。
改めて。
ハタケヤマリクと申します。
導入
今は26歳(1997年生まれ)、札幌出身の能登半島珠洲と能登町で、里山の家と里海の家で暮らしていました。
趣味は、多め。
旅、アウトドア、ものづくり、スパイスと茶と酒、アートと工芸収集、古道具古家具、読書、ヨガ、デザインetc….
趣味がシゴトになってくことも多々。
2024年1月1日の能登半島地震珠洲市に事業も住まいもあり、現地で被災しました。
現在は支援と復興活動のための"惚惚倶楽部(hb club)”を立ち上げ、情報発信や企画、現地での支援活動をしています。
現在、活動支援金を募集していますので、次の投稿か記事を見ていただけたら嬉しいです。
ご支援とご協力お願いいたします。拡散も歓迎です!
本題の僕が何者なのか。
何者か(学生~独立まで)
ざっくりですが、何をしていたのか。
大学1年の時にゲストハウスの立ち上げのため単身ベトナムへ行き、ゲストハウスをオープンまでを携っていました。
札幌のゲストハウスベンチャーで、社員は数名。そのベンチャーも海外初事業だったのですが、当時19歳の僕が単身で、社長も”2000万でゲストハウスを作ってきて”という無茶振り。とはいえ、裁量権も持たせてもらって、忘れられない刺激的な日々をベトナムで過ごしました。
その後自身でも、まちのライフスタイルを創るようなホテルや飲食店などの「存在」をつくりたいと目標を抱き始めました。
海外での旅をしながら仕事をリモートでするノマドワーカー、そして日本では土着した生き方をする百姓な人生の先輩方との出会いやから、大学中退することを決意。
カナダからいただいていた仕事で移住をしようとしていたのが、22歳のとき。僕は大学を中退してますが、年齢的には新卒の年だったので、周囲もちょうど就職の時期。
そんな時にコロナが流行り出し、、、。
カナダへも行けなくなり行き場がなくなってしまった時に、日本でもリモートワークが徐々に受け入れられるようになり、ノマド暮らしに挑戦したいと思って独立。
何者か(独立後〜能登に移住するまで)
旅をしながらクリエイティブ制作や飲食、イベント企画などのフリーランス活動していました。カルチャーメディアを立ち上げたりなども。
その間は、ホテル暮らしや山籠り暮らしを合わせて1年近くを過ごしました。実際にノマドになって気づく、旅をしながら生活する苦労。旅先で出会う友人たちができると、定期的に友人たちに会いたくなってしまう。
そんなことを繰り返すと、移動だらけ。意外とオレは旅ばっかりの生活は好きではないかも、、、、と思い始めた頃に、元々持っているアトピーと自律神経の乱れやすさから、心身を壊してしまいました。
療養生活もおよそ1年近く過ごし、体力的にも資金的にも底をついた時に、ふと人間らしい"暮らし"をしたいと思いつき、そんな時に出会った能登半島珠洲市の移住者の方と知り合い、初めての能登へ。石川県自体も初めて。
そこで里山里海の暮らしや人と接したことで、こういう生きることの不便さや自然と心から向き合うことのやりがいを感じました。
そこからたまに能登へ行くようになり、2023年5月5日の奥能登地震が発生。
当時は現地にいたわけではないですが、根拠も理由もない"ナニカ"が自分の中で、覚悟が決まった感覚がしました。能登に移り住もうと。
すぐに準備し、移住。
なんとか引っ越し費用や生活を作って、暮らし始めが2023年7月。ちょうど奥能登地震の頃に、元モーテルの建物をホテルと飲食店へと生まれ変えるプロジェクトに声をかけてもらったご縁から、移住して早速店舗の準備。
ホテル支配人&喫茶BARオーナーとして、地元の方との関係を作りながらひたすらに資金作り。移住前の療養中の医療費で、ほぼ口座はゼロ。そこから開業資金を作るために必死に働き、同時に地元の方との関係構築を。
しかも今回のホテル&喫茶は、地元の企業と組みながら施工進めていますが、設計士なしで進めています。つまり、空間をデザインするのも自分たち。初めてばかりで苦労は当たり前、ただその苦労が心地よく感じてる自分に変態性を感じつつ。
縁もゆかりもなかった能登で短期間で、どう土着していったのか。
まだまだ土着の最中でありますが。地元の方に認知してもらって受け入れてもらえた要因は、顔を合わせて楽しい時間を地元の人と一緒を過ごすこと。これは打算的ではなく、心の底から純粋に楽しんでいました。(今も楽しい、、、!)
自分らしくいた、そして自分らしくいさせてくれた人に囲まれたことは本当に幸せに感じます。
出かけてる間に、玄関にきゅうりとブルーベリーがポンっと置いてくれていたり、家の洗濯機やお風呂が整備されるまでの間、無料で銭湯や洗濯機を使わせてくれたり。
車を故障させた時は、車を貸してくれました。東京でのPOPUP出店の時には、農家さんが米を100kgくれたり、、、。
地震の日の前日の大晦日も、地元の方の家でひたすら飲み明かし、次の日の早朝は一緒にお雑煮を食べて。
僕にとっては"家族"を感じさせてくれました。能登で生きる決断は、恵まれた判断だと思います。
”顔を合わせて楽しい時間を地元の人と一緒を過ごすこと”
一番印象的なきっかけがあります。
能登で生きていく決断が一層深くなったきっかけであり、土着できたきっかけ、でもある、、、
お祭り、です!
能登お祭りは、クレイジー。海外にもないくらいの異常さ。
キリコという大きな神輿を担いで、轟轟に燃える松明を回ったり、首元まで深くまで海に入っていく。
アドレナリンドバドバなお祭りは、各地域ごとにあることから夏場の能登は、毎週のようにこんな熱いお祭りがあります。
こんなにお祭りが熱いとは知らず、どハマりし片っ端から担ぎに行っていました。お祭りに参加していたことで可愛がってもらって。
地元の方のもつ里山里海暮らしの話が楽しくてひたすら人と会って、毎日いただく食材たちで生活をして。能登に土着する楽しさ、今この文章を書きながら噛み締めてます笑
おかげさまで、里山里海に土着したライフスタイルに。
能登でしていること。
準備していたホテル&喫茶。海沿いの元モーテルは施工も進み、2024年3月にオープンを控えていました。
ホテルは、Hotel notonowa。能登(noto)の和(wa)を意味した名前です。
喫茶BARは、惚惚(horebore)。惚れ惚れする暮らしを、この最果ての地の能登らしさとともに体現する食の社交場。
能登での暮らしに惚れたことから、同じように能登の暮らしに魅力を感じて欲しいと思い、能登への移住や関係人口創出の企画やサポートのお仕事もさせてもらっています。
まさにこれからというときに、今回の能登半島地震は残酷なものでした。
もっと残酷に感じているのは、能登でずっと生き続けてきた方々。人生の全てであり、死ぬまでこの地で。そう思っている人は本当に多い。
この土地で生きることが当たり前で、自然や人を愛することが前提。そしてその前提は"家"があることで住めるからこそ成り立つこと。能登の家は冠婚葬祭をすることから、豪邸レベルの広さの歴史のある家ばかり。僕の家も軽く100人は雑魚寝できるくらいの広さ。そんな自分の人生をずっと一緒に歩んできた家とお別れすること、その家がある集落の人と別れる辛さは計り知れないです。
この地に生かされてきた自分は、奥能登地震に呼ばれ、能登半島地震に遭遇しました。"ナニカ"の巡り合わせを感じ役割を見出した気がしています。
能登在住の、
企画屋さん、ホテル支配人、喫茶BARオーナー、デザイナー、エンジニア(ちょっとだけ)etc…..。
暮らしの中で欲しいと思うことや必要なことを自分で始めた結果肩書きは定義できなくなってしまいましたが、これで良いかと思っています。
あくまで生活者。幸せな生活を送るために、好きな人々と、好きなことや遊び/シゴトをし、好きなものを食し、好きな場所で、好きな時間を過ごす。そうした結果、肩書きのない"一"生活者でいたいと思っています。
何者なのか、少しはわかっていただけたと思います!
求められるのであれば、一緒にイベントやコラボ、講演のようなお話しする機会も歓迎です。
能登そしてそこにある暮らしを伝える機会は嬉しいですし、能登だけではなく日本人、地球人として役に立てるのであれば方法は模索して行くので、お声がけいただけたらと思います。
現地の支援はもちろん、復興のための企画などなど。
仲間が欲しい。ご協力も、ご支援もお待ちしております。
長くなりました。
ありがとうございます!
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