ハンドボールとの出会い(高校編)
まず、前回に(中学校編)も上げています。
まだ見ていない方はぜひご一読ください。
第二弾、高校編
私のハンドボール人生で、大きく動き出した時期。
元々愛知で育った私は、スポーツ推薦で大分県の大分高等学校に進んだ。
理由は、強いところでハンドボールをしたかったから。
中学編で書いた内容に、一つ上の代で全国大会が愛知開催ということを記載したが、その時に私の指導者が見てみろと指さしたところが、
大分中学校だった。
そこは全員のレベルがずば抜けて高かった。基礎の技術はもちろん、個人の打開能力も高くて私たちのチームの一段も二段も上の技術を持っていた。
中学で進路を決め始めるときに、私の高校の選ぶ基準は曲がらず、
ハンドボールが強いところ
という基準でしか考えていなかった。
先ほど紹介した大分中学校は中高一貫校なので、全国大会にいたあのメンバーが大分高校にいることが分かっていた
強い人たちに混ざってハンドボールがしたい!
という気持ちをもち、大分高校への進学を選んだ。
親には少し反対される部分もあったが、自分の気持ちをしっかり伝えた。
なにせ高校から親元を離れるなんて、私も両親も思ってもいなかったから。
高校では寮生活になり、同期や先輩、後に後輩などど同じ時間を多く過ごす、私にとっての第二の故郷ができた。
練習環境には徐々に慣れていったものの、私の試練はこれからだった。
先輩達からの地味な圧があった。
優勝して賞もらった選手。という立場で、あほみたいに上手い先輩達に混ざりながら練習していると、私という人間がそう大した人間じゃないことに気づき始める。
「大したことないやん」、「ほんとに賞もらった?」
自分にはとてもデリケートな言葉が日々飛び交う毎日が続いた。
コーチに説教を喰らっているとき、歳が近いのもあり友達のような感覚で安直な疑問もぶつけることができた。
きっとあの時はしんどかったり、辛かったりなどの感情からこの言葉が出てきたのだと思う。
お説教の時間だったので、正座をしながら真顔で言いました。
「なんで先輩たちは練習を真面目にしていないのに、真面目に取り組んでる僕には成長が見えないのでしょうか?」
(´・ω・`)
と、こんな顔で訴えかけてたと思う。
先輩たちは真面目に取り組んでいなかったが、それが、その人たちの、やり方というか、カラー、というか…。
それでも強かった。
良くも悪くも尊敬できる所と、尊敬できないところがはっきりしている方々が集まっていた。
そんな人たちについていくのが精いっぱいの私が放った言葉は、共に苦行(正座で説教)を行っていた同期の人たちには、こいつとうとう頭イカれたと思わせてしまっただろう。
そんな僕でも自分の代になり、キャプテンをすることになった。
理由として大きかったのはたぶん自分の代の人数が少なく、できそうな人間が私だったからという消去法だと思われる。
中々上手くいかないことも多かったが、今ではいろいろな経験ができたなとポジティブに捉えられている。
名門校のキャプテンを任せられた責任感もあり、柔軟な頭がなかった私は当時はとても固い人間と思われても仕方ないくらい真面目に高校生活を送ってきた。
のくせして結果はインターハイに出れず。
ハンドボール人生で一番しんどかった時期でもあり、一番苦い思い出となった。
一番楽しかったのは国体チーム。当時雄城台高校との合併チームでした。
当時は真面目な人が集まっていて、ハンドボールに熱心に取り組む人間が多かった。
結果は5位入賞、中途半端な結果で終わってしまったが、自分のすべてを出し切り、悔いのない大会になった。
進路を考える時期になり、最後の大会もやり切った感があったので、ハンドボールをやめて、専門学校に行くことを考えていた。
だが、心のどこかに中学校で優勝した時の感覚が忘れられず、まだハンドボールを続けたいと思った。
大学編に関しては、引退の記事に大まかに書いてあるので、省略させていただきます。
今後の投稿に関しては社会人チームに所属したTeToTeに関する内容をメインに載せていきたいと思います。
よろしくお願いします。