父、猿にまわされる。
もう二十数年前になるだろうか。
なにを思ったのか、父がとつぜん…
「猿かわいいのぉ」
と、つぶやいた。
危ういながれを感知する力をもつことは我が家では必須だった。
「そうでもないとおもう」
と、家族は即座に淡々と否定した。
日○猿軍団やムツゴロウさんの動物番組が連日テレビを賑わしていた頃だ。
だいたいのところ、そういうドキュメントをみて、そのつぎの瞬間に父は必ず「わしもやろう」というのである。
案の定、「日本猿を飼いたい」といいだした。
「猿なんて飼ってどうするの」と聞くと、
父はお手本のように答えた。
「猿回し」
舐めてはいけない……忘れてはいけない……。
そう、父はいつも本気だということを、だ。
呆れ無視する家族をよそに、父は猿を飼っているという人たちへあっという間に、連絡をつなげていった。
悪のネットワークおそるべしである。
この世の中にはうちの父を止めるという行為をかってでる人はいないのかと子供ながらに呆れ返った。
電話でさんざん猿を飼うのは面白いと煽られて、母の冷たい目をよそに父はウキウキで日本猿を飼うことになっていた。
紹介したのが誰なのか子供の私には分からなかったが、他人事とは、本当に恐ろしいものだと身にしみた。
話が決まればとにかく父の行動力の速さは凄まじい。
お待たせすることはあってはならないのだ。
それがサービス精神たる物らしい。
芝生をしきつめていたはずの庭は片手ほどの日数で猿の小屋の建て地として占拠されていった。
一体……何匹飼うのだろう。
間もなく小屋が三つでき、猿がどこからか三匹やってきた。
そのなかでも気性の荒いボスらしき猿がいて、父は「銀太」と名付けた。
銀太はやって来た初日からふてぶてしい態度をしていた。
あいさつはできないわ、すぐに歯を向いて威嚇する、人に手を出すわ、逃げるわ噛むわ……。
柿の木に登って柿をたべるわ、ろくな猿じゃなかった。
ただのチンピラザルだった。
父は教育をしようと彼のBOSSになることに決めた。
2人1組で常に出歩き、銀太が間違ったことをすると、押さえつけて完全服従をしいた。
道端で猿に覆いかぶさって人間の道徳を猿に言い聞かせている父の姿を見る娘の複雑な気持ちを理解してほしい。
父の捨て身のおかげか、銀太は父のいうことだけは聞くようになった。
しかし、あざとい銀太は父の目を盗んでは、母が家庭菜園から収穫したトマトや胡瓜を持って小屋の横を通るたびにヒョイっと盗み喰いするのだった。
激怒した母は「躾がなっていない!」と父を叱り、父は「お母さんにおこられたぞっ!」と銀太を叱っていた。
猿を相手に最低な悪循環である。
父と銀太は格闘のすえ、父に軍配が上がったようで、銀太は母にも気を遣うようになっていった。
が……本当は銀太は父より母に叱られるほうがよほどこわかったのだ。
できが悪いコほどかわいいのか、父は銀太を露天風呂に入れてやったり、抱っこしたり、それはもう子供以上にかわいがった。
当然、父は見返りを求めていた。
銀太とコンビで「赤フンの座⚪︎市」をしたかったのだ。
しかし、銀太はそこまでやる気のある真面目な猿ではなかった。
唯一習得できた芸は「お手」。
数ヶ月、数年、教えこんだものは何の役に立たない「お手」だけだったのだ。
それも一瞬、手を出すのみ。
あんなに毎日生傷のたえない死闘を繰り返したのに……「お手」。
父は本気で「猿回し」でひと儲けを企んでいたにちがいなかったというのに、だ。
たまに、山下清のマネをしながら、銀太を連れ、「ぼ、ぼくは、お猿を飼ったんだな。銀太って名前なんだな…か、かわいいんだな」などと近所をまわっていたが、銀太が芸をするわけでなく、猿にまわされているのは完全に父だった。
気の毒だがしかたない。「お手」で日本全国まわってこられるものなら、まわってくればいい。
他の猿たちは父が銀太に振り回されている間、何の芸も仕込まれることなく呑気にくらしていた。
唯一の救いといえば、近所の方々が自前の果物や野菜を持って猿とふれあう行為を非常に楽しんでくださったことだ。子供や孫をつれてきてちょっとした動物園気分を味わっていた。
今もまだ、露天風呂から飛び出した銀太を、真っ裸で追いかける父の姿がまぶたの裏に焼き付いている。
もう、どっちが「猿」だかわからない。
つくづく気の毒な光景であった。
結局、我が家の日本猿は子どもも産み、1番多いときは、5匹の大所帯となった。
銀太が立派に芸のできる猿だったならば私は本当に「猿回し座○市一座」の娘になっていたかもしれない。
父という生き物が、ますますわからない。