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避難訓練で「おはしも完全無視」というグランドスラムを達成した同級生の話

「おはしも」という言葉をご存知だろうか。

古語に見えなくもないですが、高校の古典の授業を思い出さなくても結構。こちらはバーチャル理科教師です。こんにちは。

「おはしも」とは、① 押さない ② 走らない ③ 喋らない ④ 戻らない の頭文字を取った、主に小学校の避難訓練の指導で使われる標語である。

「おはしも」以外にも、

「走らない」→「駆けない」となった「おかしも」

「低学年優先」を加えた「おはしもて」

日本最大の割り箸メーカー「おてもと」

熊本県民謡「おてもやん」

エンタ芸人「モエヤン」

などの亜種が存在する。

私の通っていた小学校では「おはしも」が採用されていた。幼稚園では「おかし」と習ったが、「かけない」の意味が「水を」「命を」かで友人と論争になった経験を持つ幼少の私にとっては非常にありがたい仕様変更であった。

事が起こったのは小学1年生の時である。

当時、私の同級生にゆうきくんという男子がいた。ゆうきくんは少し変わった子で、とにかく落ち着きがなく、なおかつかなりの甘えん坊で、先生もなかなかに手を焼いていた生徒だった。

ゆうきくんはいわゆる「鍵っ子」で彼は常に首から自宅の鍵をぶら下げており、私は「家の玄関を自在に開閉できる」という彼の特殊能力に憧憬の眼差しを向けていた。(1年後、雑巾がけ中に転んだゆうきくんの顎にソイツがブッ刺さるという事件が起こるのはまた別の話)

もはや季節すら覚えていないある日のこと、学校全体で避難訓練があった。そのことは全校生徒に各クラスの「朝の会」で告知されており、その場ではもちろん「おはしも」の概念を習い、避難経路を確認するという儀式を行った。避難訓練経験者である私はどうやって周りに差をつけてやろうかと思案していた。

そして午前中の何時間目であったか、授業中に聞き慣れないサイレンの音が鳴り響いた。何人かの児童が大げさに耳を塞いで見せたのも束の間、先生の頭上にあるスピーカーから「火事です。火事です。」という、とても緊急時とは思えない落ち着きの教頭の声が低音質で教室に響いた。

ノーリスクで授業が中断されるのだから児童は内心大喜びである。しかしそこは小学生、その瞬間からいかに「おはしも」を守れるかの競い合いが、誰が合図をするでもなく始まる。互いを監視し、違反をする者は先生に密告されるライアーゲームのゴングが鳴った。少しでも歩を速めれば糾弾される緊張感は競歩そのものである。

しかし、そんな子供の小競り合いなど一笑に付すように、ゆうきくんはこう叫んだのだ。




「うわああああああああああああああ!!!!!!」




そう言って彼は他の児童の机を押しのけながら、校庭へと全力で走り出した。

すぐに口頭で静止する先生。しかし極限状態で自らの生に縋りつく彼には、もはやそんな言葉は届いていなかった。

教室は一瞬呆気に取られたが、先生の「『おはしも』だよ!」の声で冷静さを取り戻した。校庭に一番乗りのゆうきくんを除く生徒は、「おはしも」を遵守しながらぞろぞろと校庭に向かった。もうライアーゲームどころではなかった。他の教室から出てきた児童も、彼の剝き出しの生への執念にビビっていた

各クラスの担任が児童を先導し、やがてクラスごとに列が出来上がっていった。

しかし、先生が人数を数え始めた頃に「ゆうきくんがいません!」という児童の声が上がった。確かに、合流したはずのゆうきくんの姿が見当たらない。先生とクラスメイトは辺りを見回した。


すると、校舎の方からアサガオの鉢を大切そうに抱えたゆうきくんが現れた。


彼はたとえ極限状態の中でも、自らが手塩にかけて育んだ小さな命を見捨てなかったのである。

先生は彼を叱るでもなく、「これは訓練だから本当の火事じゃないんだよ」と優しく諭した。ゆうきくんは鉢を抱えながら列に合流したが、不思議と彼を揶揄する者はいなかった。


かくして、ゆうきくんは「おはしも完全無視」という、前人未到のグランドスラムを達成して見せた。

ゆうきくんはその後も数々の伝説を残したが、小学3年生に進級する前に親の都合で転校してしまった。

彼と学び舎を共にしたのはたったの2年。しかし20年近く経った今でも私は彼のことを忘れられない。


彼はルールよりも大切なものがあるということを、全身全霊で私たちに教えてくれたのである。


ゆうきくんが今どうしているかは知る由もないが、もしも会うことがあったらこう言いたい。


なんで2年生のときのプチトマトの世話はしなかったの?嫌いだったの?


以上です。

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