【読書記録】やりがいを求めなくなったら心が軽くなった話『静かな働き方 「ほどよい」仕事でじぶん時間を取り戻す』
「やりがいは二の次、そんなこと言ってる暇があれば目の前の仕事を片付けろって話。」
podcastを聴いていたら流れてきた言葉。50代のパーソナリティーが口にしていた言葉は、私の心にズキズキと刺さった。
仕事でつまづいてから、やりがいについての考え方が少し変わった。今日はそんな話。
ちょうど、そんなタイミングで出会ったこの本の紹介も兼ねて。
やりがいって、何?
私が思う「やりがい」は、多分、「手触り感」なんだと思う。
目の前の人の役に立てていること。自分の努力が目に見えて結果につながること。そして誰かに喜んでもらえること。
だから、主語の大きいプロジェクトはすごく苦手だった。
自分に大企業が向いてないだろうと思ったのも同じ理由だった。
自分がしていることが何につながっているのか見えづらい、結果が見えるのに時間を要する、そういう物が苦手だと、ようやく気づいてきた。
仕事にやりがいを求めていた
週5日を費やす仕事には、やりがいが欲しかった。
「やりがいなんてない、生きるためには働かないといけない」
そういう考え方が嫌いだった。だってそれは本心じゃないでしょ?みんな本当は、心の奥でやりがいを求めているはずだ。そう思っていた。
でも、そう思いながら仕事をするのは、大分辛かった。
なぜなら仕事の大半は「誰かがやらねばならないこと」。特に会社員である以上、仕事は選べないことの方が多い。
私は苦手な「主語の大きなプロジェクト」にアサインされ、手触り感の無い日々に悶々とすることになった。
でも会社員がいないと社会は成り立たない。
というか、別に会社員でなくたって、完全にやりたくない仕事をしないでいられる人なんていない。
全ては折り合いなんだ、そう思って私は仕事にやりがいを求めることをやめた。
どちらかというと、私にとってはポジティブな思考変換だった。
「仕事に全てを求めなくていいんだ」「やりがいは仕事の外に求めてもいいんだ」そう思えると心が軽くなる気がした。
「やりがいのある仕事」が主流の考え方になったのは50年前
ここでやっと、本の話。笑
元々、人は生きるための労働をしていたし、農作の時代は時間でなく太陽と共に仕事をしていた。
産業革命が起きても生きるための労働、という流れは変わらなかった。
しかし、時代が進み資本主義社会が成熟するにつれて、資本家は「労働者の価値」を「その人が生産するものの価値」として見るようになる。
そして、個々の労働者の生産性を、お金や時間といった数値で管理するようになり、ますます労働者の時間は経済的価値を帯びるようになる。
そうして生産性を求め一生懸命に働く現代人は、働く時間=自分の価値というように捉えるようになった。
と、いうようなことが書かれていた。
仕事=自分の価値?
この本を読んで、仕事にやりがいを求めるということは、「どのような仕事をしているのかが自分の価値に直結する」という考えなのではないかと思うようになった。
そして、それが社会の仕組み的に形成された概念なのではないか?と一歩引いて考えた時、「その考え方は一つの価値観にしか過ぎないよ」と言われた気がした。
話は逸れるけど、本を読んで思考の階段を少し登って、自分を見下ろしてみるこの感覚、好きだな。
必ずしも仕事=自分の価値ではない。
また新たな考え方に出会ったのでした。
まだまだ未熟、でも未熟な気持ちも大切にしたい
冒頭のpodcastの言葉。
会社の先輩も、親も、会社員として人生を積み重ねた人は多かれ少なかれ、仕事にやりがいなんて求めてないんだろうなと思う瞬間がある。家族のため、生きるため、理由はそれぞれだけど皆折り合いをつけて働いている。
社会の先輩方からすれば自分はまだまだ未熟で、きっとすごく子供に見えているんだろう。
そう思うけど、一方で今自分が感じている感覚も大切にしたいと思う。
心のどこかでやっぱり私が思う「やりがい」を感じていたい自分がいる。
自分にとっての「成功」を、自分で定義する。
仕事じゃなくてもいい。自分のやりがいは自分で決めたらいい。
そう思えて、少し心が軽くなった。