「物語る」までの時間|Nozomi Ichikawa
市川望美です。日曜日担当のはずが、のっけから1週飛ばしてしまいましたー。色々書いてみたいことがあって、どれにしようかな、あれがいいな、これもいいなとかやっているだけで時間が過ぎ去る、これは私あるあるです。
こつこつと形にしていけるよう、あらためて気を引き締めていきます。
「物語る」という行為の日常性とその価値
「ライフストーリー研究」というと少し大仰ですが、「物語る」という行為は日常的な行為であり、また、そこからうまれる「物語」という言葉も日常語です。
「インタビュー」という形式、手法を用いると構えてしまうかもいれないけど、自分の人生や日常に根差した話をしているうちに、徐々にリラックスされて、その人らしさが垣間見える言葉づかいや独特の表現に出会うことができます。そして、その人の経験、置かれている環境ならではの言葉、その人ならではの「語り」と「物語」には、聞いている人たちの心を動かす力があります。日常的でありながら、特別な人たちの特別な物語とはまた違う力があるのです。
「鍵ことば」としての物語とその共同性
論文の中でこんな風に書いたのだけど、まさにそうなのです。
「物語」という言葉は、身近な日常語でありながら、人生や人間存在の意味の深い層まで達することができるという価値を持つ。そして、物語は日常語であるがゆえにすべての人が接触できる引き金であり、心の鍵を開ける鍵ことばとなる。他者の物語に触れることで引き金が引かれ、自らの自分の経験を語ることで心の「鍵」をあける契機となりうる。
話し相手に問いかけらたことで自分を見つめなおし、そこで初めて意識できた気持ちとか、「語り」の流れの中で無意識的に言語化され、言葉にして初めて「わたし、そうだったのか」と気づく気持ちとか。「鍵があく」「扉が開く」瞬間に立ち会うことは珍しいことではありません。
また、インタビューを書きおこし、分析をし、フィードバックすることで初めて見えてくるものもあります。自分とは別の視点で物語を再構成してもらうことで、見えなかった部分が見えたり。誰しも「盲点」があるのです
また、自分では意味や意義を見出せなかった行為や、当たり前すぎてスルーしたエピソードに意味付けや価値づけをしてもらうことで、自分の中での認知が変わり、ストーリーの解釈が変わったり、ストーリーラインそのものが大きく変わることもあります。これはライフストーリーがもつ共同性の価値そのもの。
Polarisが開催しているライフストーリーに関するゼミ(自由七科ゼミ:半分幸せの考察」~女性のライフストーリーと、選択における個人と社会の関係性)の中でも、実技習得のために、30分程度のインタビューを受講生全員で分析し、インタビュイーにフィードバックしたのですが、多様な視点からライフストーリー(物語)が再編集、再構成されたことで、自分自身を別の角度から見直すことができたり、自分自身の経験に新たな価値を見出してもらえたり、自分のキャラクターを魅力的に表現してもらえたり、「とても素敵なギフトをもらった気持ち」という感想が出ていました。
ライフストーリーはひとりでは語れない。
ライフストーリーは、自分ひとりでは語れない。そんな言葉もありました。
インタビュー時、ふと黙り込んで沈黙が起きたり、ふうっーと呼吸をするようなこともあります。そして、「思い切って言っちゃうけど・・・」「これ初めて人に言いました」という言葉とともに、その人がずっと心の中で抱えてきた思いが言葉になることもあります。
その内容は、ええ、そうだったのかと驚くものもあれば、え、そんなことを・・・?と思うようなこともあって、本人にとってのその出来事の重みとは人それぞれだなあと感じ入ります。
こちらからすると「そんなこと?」と思うようなことでも(批判ではなく客観的事実の確認として)、ずっとずっとその人の心のそこで澱(おり)にように沈んでいるものもあるのです。
実際、小さな棘のような出来事や、自分だけがそんなことを考えているのだろうか、、と思うような出来事の方がずっと心を縛るものになるのかもしれません。
大きな衝撃を与えるような出来事は、追い込まれることで逆に発揮する力などもあって、割とオープンに語られることが多いですが、小さな棘のような出来事は、「逃げ出す」「戦う」といった非常時対応がとりにく、「低温やけど」のようにじわじわと深層部にダメージを与えることにもなる。
選択の自由度と健康の関連性の研究でもこのように確認されています。
軽度だが持続的なストレス要因にさらされた人は、時間とともに回復するということがない。そもそも闘争・逃走本能はこういったものに対処するはたらきではないので、例えば解雇や離婚といったそれほど頻繁に起こらない大きな災難に見舞われるよりも却って健康を大きく害することがある。
(『選択の科学 コロンビア大学ビジネススクール特別講義 』シーナ・アイエンガー,文春文庫 2014/7/10)
「物語る」までの時間、語られなかった物語。
そんな風に「澱」のように積もったネガティブな感情は、言葉にされるまで長い時間を必要とすることがあります。
私自身、上手く処理しきれない感情を抱えていた時期がありました。その感情は、最初はちょっとした違和感だったはずなのに、もはや無視できないほど大きくなってしまった。「違和感」を越えていると気がついているけれど、大きな行動に移す「決定的な理由」だと思えなかったり(今思えばこれは恐れからくる防御だったんだろう)、「今」コトを大きくすることがストレスだったり、それらもろもろをひっくるめて対処する勇気がない。かといって、この気持ちを持ち続けるにはしんどくて・・・・どうにも動けなかった。
でも、ずっとこのままでいいとは思っていなくて、とりあえず自分を守るために、イメージの中で「そのコト」を氷漬けにしていました。「そのコト」をそのままに置いておくと傷がじくじく痛み、そこから腐ってしまうような気がしていたから、自分から切り離して、腐らないように。氷の下に沈めておく。いつか、取り出して対処できる日がくるまで。
無いことにはしないし、忘れないけど、今はまだ無理だけど・・。
「長考」のとき。
今すぐ対処できなくても、自分を責めない。でも、その感情の存在は忘れない。そんな風に考えながら、かつ、「今は長考に入ってるんだ」と思うようにもしていました。
「長考」とは、将棋や囲碁でよく使われる言葉。言葉通り「次の手を打つまで長い時間をかけること」の意味ですが、問題はわかっているのに行動できずにぐずぐずしている自分に嫌気がさしたり、とにかく行動しなくてはと焦る気持ちが浮かんだときに、この「長考」という言葉がふっと思い浮かび、「そうだ、長考だ」と思えたことで、次への腹積もりができた気がします。
「長考ったって、言い訳、逃げじゃないの?」と思わないでもないけれど、羽生名人が長考について話されている記事で「長考に見切りをつけて決断し、選択ができるかどうか」というフレーズを発見し、そうか、私の意識は「長考」でなく「見切りをつけて決断し、選択できる」という方に向かっているんだなと再確認し、「その時」までなんとかしのいだのでした。
「物語る」までの時間の存在も、その人の人生を支えているんですよね。
語られた物語も、語られなかった物語も、両方が私たちのライフ・人生そのもの。 どんな形であれ、どんな時間がかかってもいいから、その物語をその人それぞれが大切に思えたらいいなあと思うのです。
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