「毎日きちんと生きる」こと|Noriko Yanagitani
みなさま、こんにちは。
立教大学社会デザイン研究所で「ライフストーリー研究」をメンバーと共に行っている柳谷典子と申します。研究活動の一環として当事者研究も扱うことから、日々、日常で起こる出来事について、この場で「語る」という行為を通してライフストーリー研究の視点から考察していきます。
第1回目ですので、あまり堅苦しくなく、まずは簡単な自己紹介から始めたいと思います。
私は大手化学メーカーに20年以上勤務し、東京で一人暮らし4年目、40代後半にさしかかりましたが、自分のことは絶対「オバサン」と呼ばない!と密かに心に決めつつも、日々行動や発言が大胆かつ奔放になり、それはもしかしたら??と思う日々を過ごしています。
さて、少し自分を振り返ると、私は高校2年生の時に交換留学でアメリカで1年を過ごし、帰国。なんとなく海外志向になっていたので、その後進学しても、さして自分のキャリアプランを描くこともなく、またなんとなくアメリカの大学に進学したいと思っていたので就職活動も行っていませんでした。ですが、なんとなく縁あって、今の会社に役員秘書職で就職することに。その後15年ほど秘書を続け、その間に結婚しましたが、夫は転勤族。2〜3年で全国を転々とするので「ついていかない」選択をし、私は実家に居候しながら仕事を続けました。
この選択については、私の周囲でもかなりの議論を巻き起こしてしまったので、また別の機会にお話させていただければと思います。
そして結婚しても変わらず、またなんとなく、ただひたすら毎日を楽しく過ごせること、を大切にし、そして自分の人生は充実していると思っていました。
その後、大げさですが一念発起して社内で新規事業提案をし、東京に転勤。そして立教大学大学院21世紀社会デザイン研究科の門をくぐることになります。
今、簡単に自己紹介方、自分の人生を語ってみました。
お気づきでしょうが、私がここで多く話した言葉は、「なんとなく」。
このnote第1回目の記事を書くにあたって、自分で自分のことを語ってみたときに、素直に出てきた言葉です。
そこで今回はこの「なんとなく」が意味することについて考えてみたいと思います。
まずこれは、今45歳の「私」が振り返って語った言葉です。
では、当時の自分はどうだったか。
私は、一生懸命に「毎日をきちんと生きる」ことを実践していると思っていました。
改めて、前出の「なんとなく」について、ライフストーリー研究の視点で読み解くと、この「なんとなく」と幾度と使用しているこの言葉こそ、私自身がその選択には自身の意思以外の何かを感じていることが、「語られている」言葉です。
私の選択はもちろん私自身が行っています。
ですが、その選択について、何らか自分自身の中で消化不良を起こしており、その思いを自身で言語化できず「なんとなく」という言葉でその葛藤を表しているのだと言えます。
言い換えると、これらの選択は、コミュニティにおけるモデルストーリーに則って行った選択だったということ、そしてそういった選択をしたくなかった自身の葛藤を、そこに見出すことができます。
「モデルストーリー」とは、自分の所属するコミュニティの中で、それが当然とされている、つまり人々が参照するストーリーです。平たく言うと社会の標準、普通と思われていることであり、またそれは制度的な参加も意味します。
例えば、進学、就職、結婚。そこにいつも何かしらの「標準形」つまりモデルストーリーが存在します。
私の語りは、このコミュニティのモデルストーリー、つまり社会の標準と比較されたときに、そこから「逸脱」しないように行った選択であった、と自分自身が捉えていると言えるのです。
ライフストーリーインタビューで注目すべき点として、このコミュニティのモデルストーリーと比較した自分について語る言葉があります。頻出する表現の一例ですが、「当然だけど」「せざるをえなかった」「仕方なかった」「しなければならなかった」「しかなかった」「どうせ」「結局」など、へりくだりなど上下の構造を意識した表現が多く見られます。
モデルストーリーの存在自体は人々の行為の結果でもあり、否定するものではありませんが、その標準形が社会全体に浸透するあまり、「私」であることを否定することにつながり、今人々の感じる生きにくさ、につながることもあると思うのです。
さて、戻りますが、どうして私は今もこの「毎日きちんと生きる」という言葉が気になっているのでしょう?
この言葉を初めて聞いたのは、師事していた大好きなお茶の先生が、まだ高校生の私に仰った言葉です。当時の私は、女子校ですが友達と毎日会い、大好きな英語の勉強をして高校生活を楽しんでおり、わざわざそんな事言われなくても毎日きちんと生きている(時折宿題は忘れますが)、と思っていました。
次にこの言葉が蘇ってきたのは20代後半。会社のキャリア研修で自分自身の振り返りを行ったときです。「果たして私は毎日きちんと生きてきたのだろうか?」と。
そして、その言葉を真正面から受け取り、仕事もプライベートもとにかく一生懸命エンジョイしようと、かなり前のめりになりました。
そして、今、ようやく、先生が仰った「毎日きちんと生きる」ことの大切さに気づき始めたと思います。毎日きちんと生きるためには、自分自身がしっかり立っていなければなりません。社会のモデルストーリーを認識し、それにどう対峙するのか。そのために自分はどうしていたいのか。それを自分できちんと探り、自分で決められるように、「毎日きちんと生きていきたい」なと思う日々です。
今後も、身の回りで語られたストーリーから少しずつ、皆さんと一緒に紐解いて行きたいと思います。次回は木村千世子さんです!
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?