東京で世界SFの授業を開く:早大准教授パウ・ピタルク・フェルナンデスさんインタビュー(その2)
その1の続きです。日本文学者からうかがうSFの話です。
2.東アジアのSFについて
PPF 最近は興味深い中国SFがたくさん出ていますね。(英語の無料ウェブジンである)Clarkesworld誌は(Storycom aka 微像国际文化传播との)提携に基づいて、1号につき最低1作の中国SFを掲載しています。私は韓国SFについてはあまり知りませんが、今度Readymade Bodhisattva: The Kaya Anthology of South Korean Science Fictionというアンソロジーが出版されますね。これはおそらく初の韓国SF英訳集ではないでしょうか。
ーーあとでチェックしてみます。韓国SF協会は昨年(2017年)に設立されたそうです。意外と最近だとは思いませんか? 韓国SF協会の方々は世界SF大会や中国SF大会に出席され、現在、世界に向けてプロモーション活動中です。今月(2018年11月)はSFコンベンションも開催するそうです。もちろん、これまでも小さなコンベンションは開催されてきたわけですが、これは一層大がかりなようです。協会のメンバーのひとりで、私が今インタビューを申し込んでいる方いわく、SF小説は韓国では長らくマイナーで、ファンタスティック要素のある主流文学や映画はSFとみなされていないそうです。(関連→韓国におけるジャンルSF受容:作家ソン・ジサンさんインタビュー)
(ここでしばらく『スノーピアサー』や『新感染』を生み出した韓国でSFは人気がないと言われているというのは驚き!という話になりました)
PPF スペインもやや似たような状況でしたね。出版社は保守的で、新しいものは出版したがりません。アシモフを出したら買う人はいるでしょうが、全然知られていない人の本を出しても売れるかなんてわからないわけで。
日本文学についても、2005年以前はそんなものでした。特定の作家の作品ばかり翻訳が続きました。なぜか三島由紀夫が人気になり、三島のほとんどの長編小説はスペイン語で読めるようになりました。川端康成はノーベル賞を取ったので、西欧で川端の小説は結構読めます。大江健三郎も同様です。しかしながら、彼らの周辺の作家たちは翻訳出版されていません。例えば志賀直哉。私の知る限り、志賀直哉の単著はスペイン語では出版されていません。川端が20作も読めるのに志賀はゼロ? 彼の歴史的重要性を鑑みれば、正気とは思えませんね。
ただし、この状況はいまや変わりつつあります。インターネットや技術の進歩のおかげで、小出版社の運営は以前より容易になり、今はたくさんの小出版社が独自の取り組みをしています。私が若いころは、リスクを避けて既に知られている著者ばかりを出す大きな出版社しかありませんでした。
SFでもおそらく同じようなことが起こっています。昔からスペイン人にもSFを書いている人はいましたし、やや小規模な出版社がスペインSFを出版していたのは確かです。しかし、私が通っていたような図書館や書店では見当たりませんでした。しかし同様に、日本文学だって見つかりませんでした。2005年以降は大きく変わりました。日本文学はもっと活発に出版されるようになりました。SFについても、国外から見ているだけでも大きく変わっていることがわかります。いくつか新しい雑誌が創刊しました。Super Sonic誌はご存じですか?
ーーはい、lektu.comで購入しました。(lektuはスペイン独自の電子書籍プラットフォーム)
PPF Super Sonicはたくさんのスペイン人作家の書下ろし小説を出版しています。小出版社のSFの扱い方はとても自然で、英語圏のSFと同様、スペインSFがあれば、英語SFもあり、日本や中国のSFもあります。これらは私が小さいときは別々の世界に属するものでした。(分断され、アクセスできないものでした) 今、このような状況が可能になったことを私は実にうれしく思っていますが、これは私がスペインを離れて以後に起こったことです。だから現場で目撃することはできませんでしたし、具体的にシーンを知っているわけではありません。もし、私にスペインのSFシーンについてのコメントを期待していたらすみません。私はそれを語るのに適した人物ではありません。私は2005年以来、スペインを離れています。私はスペインSFの関係者ではないのです。スペイン語で何を読んだり(ポッドキャストで)聴いたりしているかを教えることはできますが、実際に関係者やコンベンションを知っているわけではありません。Hispaconがいつから始まったかわかりませんが、それは幼少期の私には見えない存在でした。
2’.東アジアのSFについて:日本SFとの出会い
ーー日本SFをチェックし始めたのはいつごろですか?
PPF 最初の機会は東大にいた2006年のことです。SFはそれまでにたくさん読んでいたので、日本SFも読んでみたくて、クラスメイトの何人かにおすすめを尋ねました。それで誰かに『銀河英雄伝説』はどうかと言われました。目を通し始めて、何だろうこれ、古く感じられるっていうか……なんていうか、個人的には格別面白くは思えませんでした。田中芳樹は他の本も読んでみましたし、『アルスラーン戦記』や短編など面白いものもあったんですが、『銀河英雄伝説』には心をつかまれませんでした。これは自分が興味を持てないタイプの日本SFだと思いました。
そして、次に読んだのが伊藤計劃の『虐殺器官』でした。きっかけはまったく覚えておらず、どこで誰に聞いたのかわかりません。とにかく書店で本を見かけ、購入したのはおぼえています。『虐殺器官』はとても気に入りました。読後、私は日本SFに関心を向け始めました。「オーケイ、自分にとって面白い日本SFもあるんだから、もっと探してみるべきだ」って。あ、決して田中芳樹が好きじゃないと言いたいわけではないです(笑) ただ私が追い求めていた、自分の読書嗜好に合う日本SFではなかったというだけです。『虐殺器官』は大好きですね。『ハーモニー』も好きです。『屍者の帝国』にも興味をそそられました。
あとは、飛浩隆を読んでいます。英訳があるので授業で学生に「自生の夢」を読んでもらったことがありました。学生たちは本当にたまげたようで「何これ……?」という反応でした。クラスで議論してからは読みとく糸口を見つけられたようですが。「自生の夢」はコロンビア大学の授業でも使ったことがあります。それは「現代東アジアのヒューマニティ」というようなタイトルで、21世紀の日本、中国、韓国の文化を文学から読みとくものでした。韓国の専門家と共催した講義でした。彼が韓国のテクストを用意し、私は日本と中国のテクストを用意して分担しました。クールで、オープンマインドで、刺激的な教授でした。私は彼にどうしてもSFもテクストに使いたいと訴えて、「わかった。いいんじゃない。やってみよう」と了承をもらいました。私がテクストに使ったもう1作は矢野徹の「折紙宇宙船の伝説」です。これは黒田藩プレスの『Speculative Japan』に収録されたものですね。
ーークラスの反応はどうでしたか。
PPF 学生たちはかなり混乱していたみたいですね。良い意味での混乱です。きっと学生たちが予想していたのは……日本SFって聞くと、巨大ロボットとかそんなのを予想すると思うんですよ。矢野徹のこの短編には、行方知れずになり、民謡でのみ知られている宇宙船が出てきます。これは単なる差別にとどまらない、社会からの排除の話です。語りの随所から、ある社会の起源と、その社会の一部であるにも関わらず片隅に押しやられてしまったものが読みとれます。社会を生き抜くため、人々は選別されます。「この女性は狂っている。この男は病気だ」というように。そういう排除の話です。
それから「自生の夢」について、最初に面白いと思ったのはこれがAIの話で、人間が出てこないことです。それから本作は『白鯨』から『羊たちの沈黙』までジャンルのありとあらゆる表現を使っています。あとアリス・ウォンも『不思議の国のアリス』から来ているのかなとつねづね考えています。本作にはこれら多数の引用があって、言葉を関係性(コネクションズ)と創造性(クリエイティヴィティ)に関わる、ある種の制御不能な力として描くために使っています。同時に危険をはらんでいること、言葉を適切に制御しようと試みるのも危険かもしれないことも示されています。本作におけるモラルはとても曖昧です。誰が善なのか、危険や暴力があるのか。これは実際のところウィルスなのか、グーグルのような図書館なのか。言葉を取り締まろうとする問題が創造する力を生んでいるのか。こういうところがとても面白かったです。飛浩隆が書くものすべてーー彼が言葉、情報、アイデンティティーについて書く手法はとても魅力的ですね。今やっている授業でも取り上げられないか検討中です。
10年前は、授業で日本SFを扱って英語で読むなんて不可能でした。でも今は、ハイカソルと黒田藩プレスのおかげで、ふんだんに材料があります。両社の仕事には本当に感謝しています!
ところで私は昨年「日本SF」とだけ題して、授業を企画しました。誰も登録しませんでした。信じられますか?
ーーえーっ。
PPF 登録数ゼロ人ですよ。本当にがっかりしました。そこで今年は、同僚と話して「グローバルSFにするのはどう? 生徒も読まなきゃって気になるんじゃない。(対象の)学生は日本SFはあまり読まないのかもしれない*1」という助言を受けました。そこで私は自分の授業名をグローバルSFに変えることに決め、そして今年は19人の生徒がいます。
ーーおめでとうございます!
(*1 ピタルク博士が所属する文化構想学部のプログラムは、日本の学生と留学生が半分ずつで構成されている。授業は英語で行われる)
3.2018年の「グローバルSF」の授業について
PPF ということで私は授業の構成を考えました。私の授業は歴史を振り返るものばかりでした。例えば、昨年(2017年)開講したミステリ小説のクラスです。この授業では、私は江戸川乱歩から始め、最後に湊かなえの『告白』を読みました。乱歩を数作。谷譲次(長谷川海太郎)を少々。佐藤春夫の「指紋」。あと「悪魔の弟子」も読んでもらいました。作者は誰でしたっけ。検事で、 貴族で、同性愛的なものも書いていて……ともあれ。(インタビュアー註:浜尾四郎と判明) 松本清張の『点と線』も読んでほしかったんですが、ちょっと長すぎたので断念しました。
このクラスで私は、起源から黄金時代、変格、社会派、イヤミスと全史をやりました。しかしSFとなると、SFはあまりに莫大で多様に思えました。たった15回の授業で全史をやるのは不可能です。オーソドックスな、英語で書かれた男性作家のSF作品に限れば可能かもしれません。でもそれはつまらないし、私がやりたいものではありませんでした。なるべく東アジアSFをやりたかった。そこで時代ではなく、テーマで区切る方針を選びました。
ユートピアから始めて、まず生徒にはアーシュラ・K・ル・グィンの「オメラスから歩み去る人々」とP・K・ディックの「マイノリティ・リポート」を読んでもらいました。その次はディストピアで、課題作は佐藤春夫「のんしゃらん記録」です。ご存じですか?
ーー名前だけは。
PPF 読むべき作品ですよ! 1929年の短篇小説ですが、おおむねIT抜きのサイバーパンクです。社会階級と生活する階層の深さが一致した世界の話です。貧しければすごく下層で暮らし、金持ちならば高層に暮らす。主人公は最下層で苦しい暮らしを送っており、そこからゆっくり登っていきます。佐藤春夫はこれを風刺の一種として書いたのだろうと思います。当時の書評を見ると、芥川龍之介の『河童』と比べられていました。読者は唯美主義とか、スウィフト的な風刺として本作を読んだことでしょう。プロレタリア文学や新感覚派への皮肉な言及があり、社会批評性は明白です。この物語で主人公は植物にーー人間と植物のハイブリッドになるという選択肢を与えられるんですね。
ーー!?
PPF 植物化は一見、より上層に到達する手段に見えます。(植物化される主人公の態度は)「わたくしめを植物に変えていただき、感謝いたします!」みたいな感じですが、彼は結局、最上部で悲惨な末路をむかえます。私はここで、本作はサイバーパンクのように読めると思いました。佐藤春夫はITを知らなかったし、コンピュータのネットワークなんて考えも及ばなかったはずです。しかし、人間と人間以外のものを進歩のために混ぜ合わせ、人間である部分を犠牲にするというのは、きわめてサイバーパンクです。人間が人間であることをやめたとき、国家にとっての人間とははたして何なのか。ある集団が別の集団を完全にモノ扱いするとはどういうことなのか。「のんしゃらん記録」は魅力的な小説ですが、佐藤春夫はこのような作品を二度と書きませんでした。試験的な作品で、彼としてはあまり納得がいかなかったのかもしれません。これが1929年製というのはとても面白いですね。素敵で狂ったお話です。
「ディストピア」テーマでは、郝景芳(ハオ・ジンファン)の「折りたたみ北京」も取り上げました。学生がジャンルや、ユートピアにおける宗教や政治、社会について考える助けになればと思っての選択です。ひとたびキーワードで考えてもらえば、学生はテクストからさまざまなものを見つけだしてくれます。特にユートピアの回では、学生たちは最初に課題を読んだ段階ではつまらなそうだったんですが、いかなるユートピアにも暗い面があるという話になり、クラスで議論や分析を始めてからは、テクストに対するイメージがかなり変わった様子が見てとれて良かったです。
ディストピアというテーマは取り組みやすいだろうと思っていました。『ハンガー・ゲーム』とか、ヤングアダルト小説などで現在とても一般的な題材ですからね。学生たちが作品の背後にある複雑さや深さについて考えたり、テーマに基づいて課題作を掘り下げていく姿は本当に興味深いです。もしSF史としてこの授業を始めていたら、佐藤春夫を先頭に、「折りたたみ北京」を最後に持ってきたでしょう。2つの作品がつながるまでには長い時間がかかります。しかしユートピアという文脈として2作を結びつければこのように面白い効果が生み出せます。
SFについては、テーマで区切ったほうがよいと思ったのは、学生たちはテーマの大半にすでになじみがあるだろうと考えたからです。別の回では「探検」をテーマにして、学生たちには「男たちの知らない女」と、ネディ・オコラフォアの"From the Lost Diary of TreeFrong7"を読んでもらいました。ティプトリー・ジュニアについて話し始める前にまず、探検物語について考えてもらいました。《インディー・ジョーンズ》とか19世紀の植民地ものの古典についてです。白人のヒーローが未知の土地にいって、原住民を発見する。悪い原住民と戦い、良い原住民を改宗させる。とても父権主義的なアプローチです。
ーー映画『アバター』みたいな。
PPF あれも良い一例ですね。学生たちは過去に自分たちに読んだものを思い起こして、ティプトリーがこの白人男性探検家ヒーローという伝統芸的なキャラクターをいかに逆転させたかということを考え始めます。「だからこそ、こういう語り手だったんだ」と気がつきます。皆、語り手のことが嫌いで「この話、嫌いです。こいつが好きになれません」と言います。そこがポイントなのです! 語り手を好きになれるはずがありません。語り手が自分がヒーローだと思い込んでいるので、読者も彼のヒーロー性を探そうとしますが、そんなものは見つかりません。かたや女性キャラクターは地球から抜け出そうとしています。
本作はとても上手に、読者がすでに脳内に持っているイメージを活性化させてくれますし、作者はそのイメージに真っ向から立ち向かった小説を書いています。作者は読者の定番イメージを喚起するだろうことをわかっていて、その上でひねりを準備している。読者にとってはショッキングな展開を迎えます。本作のオチをおぼえていますか? 異星人が女性キャラクターの前に現れると、彼女は地球から連れ出してくれるように頼みます。もう耐えられない、この場所は大嫌いでここにだけはいられないと。
最初に、ある生徒がこの小説における異星人の必要性がわからないと発言しました。抑圧と性差別と悪の話は異星人抜きでも書けるだろうにと。本作から異星人を抜いた場合、この話がどのように変わるか、皆で精読して考えてみました。私は学生たちが、SFがいかに宇宙規模の巨大なスケールにまで広げてくれるか理解してくれたと思っています。つらい生活を送る女性の話ではない。つらい生活を送るその時代のすべての女性の話ではない。これは宇宙レベルで女性について語っている話なのです。現代やあと10年後や過去100年の問題ではないのです。男女間の抑圧的な関係性は根深く、登場人物が惑星を離れざるを得ないほどなのです。
他のジャンルなら、ドラマティックなスピーチを台詞として用意し、なぜ問題がこれほどまで超越的なのか語らせないといけないでしょう。SFならば異星人を登場させればいいのです。異星人に対して、彼女に「この惑星から連れて行ってくれてかまわない。連れて行って、お願い、連れて行って」と言わせれば済むのです。読者は問題が宇宙スケールであることを感じとります。「ああ、この女性は本当にこの星を去る気で、状況はきわめて悪く、簡単に解決できそうもないんだ。だって解決策があるなら、実行しているはずだろうから。それができないということは、この女性が対処できないほどの大きな問題なんだ。だから去るしかなくなった」と認識できます。
SFは単に、ここにロボットを置いて、ここに宇宙船を置くというだけのものではありません。宇宙規模というのは他ジャンルでは類を見ない感覚です。地球すべて、種族すべてという単位で語ることで、読者には大きなインパクトを与えられます。宇宙というスケールはとても強力です。
これは私が授業でやろうとしている、学生たちが持つこれまでの知識を活性化させ、テーマやイメージを特定の集まりにまとめる取りくみの一例です。ですので、彼らにとってなにかショッキングなことか、新しいことをもたらすテクストを用意しています。
この他にテクストにした作品には、メガン・アーケンバーグの「最終試験」があります。これは基本的にアポカリプスものですが、複数の選択肢形式で語られます。本作は学生たちにとって新鮮なようで、こういう視点で語られた小説は読んだことがなかったようでした。読者がすでに持っているアポカリプスもの、アルマゲドンものについてのイメージを喚起してくれる、SFの幅広さの良例である作品です。ゴジラを見たり、『地球最後の男(アイ・アム・レジェンド)』を読む機会も作りたいと思いますが、全然時間が足りないですね。ともあれ「最終試験」のような話はありがたいものです。これは最初のほうの授業で課題にしました。
すでに知っていることも、ひとたび活性化されて立ち戻って考えてみるとまた違って見えてきます。私はクラスのために多層的に読めるテクストを用意するようにしました。重層的に読めるのはSFに特有だと思っています。いや、どのジャンルでもあることでしょうから、あるいは特有というべきではないかもしれませんね。でも、SF的なテクストが持つイメージの定番演目(レパートリー)は豊かだと思います。一方でそれがSFを形式的にし得るというところもあって、純文学側からしばしば「SFはクッキーの型のようにテンプレートばかりだ」という批判が寄せられているのを見ました。定型的、くりかえし、同じパターンばかりというのは、うまく題材を扱えなければ確かに起こりえることです。しかし、うまく定型を扱えれば、SFの定番演目(レパートリー)がいかに滋味豊かであることを味わえることでしょう。それはすばらしいものです。
ーーありがとうございました。
*ピタルク・フェルナンデス博士は、日本のSFイベントに参加されたことはないそうです。現在はまだお子さんが小さく、とてもお忙しいとか。この日も貴重な空き時間をぬってお越しいただきました。でもゆくゆくは参加してみたいとのことです。曰く、「グレッグ・イーガンには米国のイベントではおろかオーストラリアでさえ会うことはできませんが、飛浩隆は会いに行ける作家ですから」
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