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歯医者に行けない原因の考察

奥ゆかしく控えめであること。
自ら主張をしないことが美徳だった時代は、確かにあった。
三十路を半年後に控えるわたしは、令和が早くも2年目を終えようとしている今でも、その感覚を引きずっている。

昔から、自分のことばかり話す人が苦手だった。
本人に悪気はないのだろうけれど、自分のことを大切に思うあまり、周囲への気配りに欠いている彼ら彼女らを嫌悪していた。
そういう人たちに向けられる周囲の冷ややかな目を客観的に感じては、誠に勝手ながら恥ずかしささえ感じていた。
自分はああなりたくない、幼いながらもそう強く思ったのだった。

だって、ねえ。
第三者から「あの人はがんばってるね」って褒められる方がうれしいし、そっちの方が周りも納得感あるし。
誰からも褒めてもらえないなら実力が足りないだけ。
褒められるまでがんばるか、お金を払うか(お金を払えるようになるまでがんばるか)。
わりとつい最近まで、そう思っていた。

時は流れ、一億総SNS時代である。
自分のことは自分で発信しなければ、埋もれるどころか存在するのかしないのかも危うくなった。
プライベートは別として、仕事においては発信の仕方の上手い下手で生きるか死ぬかが決まる人も少なくないはずだ。
一発バズれば、一躍時の人となれる。
ほんとうのところの実力や仕事へのスタンス、人柄などの細かなことは、あまり重視されなくなっていくのだろう(もちろん長期的なお付き合いは別なはずだけど)。

気づけば世の中の考え方はひっくり返っていたのだ。
自分を愛し、それを自ら主張することは素晴らしいことだ。
黙っているなんてもったいない。
自分の価値は自分で見出し、自分で発信すべきなんだ。

今となってはわたしもそう思える(できているかどうかは置いといて)。
もしかしたら昔抱いていた嫌悪感は、劣等感、嫉妬心だったのかもしれない。
自信に満ち足りていて、恥ずかしげもなく自分を誇れること。
周囲に主張しては堂々と同意を求められること。
彼ら彼女らはただ、時代を先取りしていたわけでなく、他者の目を気にせず自分らしく自分を愛しながら生きていただけだった。

頭ではわかっていても、心と行動を変えることは難しい。
わたしは“ご自愛”がとても苦手だ。
なぜならば、「自ら自分を大切にする」ことに対して気が引けてしまうからだ。
極端すぎるとは思うけれども、第三者から「体調悪そうだね、病院行ったら?」と提案されるまで、病院に行けない。
妙な奥ゆかしさを育ててしまったものだ。

実は先週末から唐突に歯が痛い。歯というか、歯茎かな。
どうやら親知らずが人様の口内にメリメリと侵入を始めているようだ。
さて、これはどうしたものか。

歯医者に行けない理由は、ひとつではない。
長らく行っていなかったから怒られるのがこわい。
予約をするのが面倒くさい。そもそも電話をするのが苦手。
そしてなにより、自分の体を治すための時間を、自ら(誰からプッシュされるでもなく)つくり出さなければならないことが、精神的に苦痛で仕方がない。
前時代の美徳に反するような気がしちゃっているわけだ。

…ごちゃごちゃ言わずに明日電話しよう。
たぶん自然治癒はしなさそうだ。

(この件に関しては、以前書いた「受け身体質」についても関連しているかもしれない。根深すぎる)


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