過去を認め、人間になる
高校時代の唯一の親友と会ったときに、エーリッヒ・フロム先生の『愛するということ』について紹介したときのことである。
本を全く読んでこなかった友人が村上春樹先生の『海辺のカフカ』を読んで感動したという話題から、読書好きな僕に最近感動した本はないかと聞いてきたことから先の話題になった。
友人が小説を読んだと言っているのに思想書を紹介するのは、コミュニケーション能力が欠落しているように思われるかもしれないが、小説は小説として朝井リョウ先生の『正欲』と年森瑛先生の『N/A』を紹介したため安心してほしい。
さて話をエーリッヒ・フロム先生の『愛するということ』に戻そう。
僕はこの本を初めて読んだとき、ページを捲る毎に雷に打たれたような衝撃を受けた。月並みな表現だが人に伝えるにはこれが最もしっくり来ている。
家庭環境がとても正常ではなかったため、今までの人生で愛を受けたことがなく、愛というものが何なのか知らずに生きてきた。
高校大学で女性と交際したことは人並みにあるが、女性から愛を受け取っているなという認識はなかったし、自分も女性を愛していたかというと頭の上に疑問符が浮かぶ。
しかし、この本には愛というものが何であるのかということが説明されていた。
僕は活字から愛を知った。
この本には人間がなぜ人を愛するようになり、愛を欲しているのかということが順を追って説明されている。
その中で僕が高校生の頃に抱いていた尖った感情が部分的に肯定されていたのだ。
何故その高校生当時の思想を記憶しているのかというと、この記事に全てが詰まっている。酷く偏った思想を感想文に書き殴っていたのである。
このことを親友に伝えると「その時々に感じた心の機微を書き残しておくことって心の調整、というか成長に繋がっていくと思うんだよね。だから六花が当時書いていたその感想文も決して無駄にはなってないと思うよ。」と、これまた肯定してくれたのだ。
僕はこの黒歴史のことを半ば自虐ネタのように扱っていた。
それを友人は認めてくれたのだ。心の荷が軽くなる心地がした。
加えて友人は告白した。彼もまた高校時代に日記、というほどではないのだが自分の発言や行動で後悔したことを、その度にスマホのメモ帳機能で記録していたという。
16,17歳の頃の自分にそんなことができただろうか。
毎日を適当に生きていた自分に気が付かせたい。
いつも隣にいてくれてる親友は君よりも数歩先を行く大人であると。
彼はことある毎にいつでもこの日記を読み返せるようにクラウドで呼び出せるようにしているという。
僕はそんな彼のことを素晴らしい人間であるという意味を込めてこう言った。
「人間じゃん」
僕は自分のことを0.01人前くらいだと思っていて、人間になりたがっている生命体レベルだと認識している。
そんな僕から見ると彼は立派な人間だった。
高校の親友であった彼とは高校時代に半年ほど喧嘩というか仲が悪い時期があった。
その期間にも彼は反省を繰り返していた。そして人間に近付いていったのだ。
僕はその期間に人間を恨み、世界を恨み、自分を憎み、性格をねじ曲げていった挙げ句、社会不適合な人間以下の存在となったのに。
そんな彼に帰り際、何とはなしに休みの日に何をしているのか聞いてみた。
「大きいショッピングモールに行って洋服を色々見たりしたり、最近だと部屋の模様替えをしたりしてリモートワークとプライベートをしっかり分けれるようにしたくて、雑貨屋とか家具屋を見て色々考えたりしてるかな」
「人間じゃん」
あー、はやく人間になりたい!!
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