「希望」もなく、「家族」みたいなつながりも感じられなくなり、「自由」もなくなった場所
こんにちは。こんばんは。おはようございます。
キリトです。
2020年5月25日、緊急事態宣言が解除された日に僕は28歳の誕生日を迎えました。
性(Sexual)
知識(Knowledge)
エバンジェリスト(Evangelist)
なので、SKE28です。
28歳になった今、いろいろ決断したいこともあり、「決断の時」だと思ったので今回はエッセイでも書きます。
そこは僕が救われるところではなかった
24歳の時から、約4年間、大学生の時にまで受けていたいじめよりさらに酷い、僕の人生史上、人間にムカついたことを沢山経験して今に至るわけだが、そのことについて述べる。
僕が携わっている性教育に関係あるようなことなので、僕のエッセイとして。
この4年間で経験してきたムカついた・不快だったことを上げると、
○女性と付き合った経験がない男性がそのことでいじられる(それを理由に大勢の前で告白の練習をさせるという性を笑いのネタにするようなことも多々あり)
○フリーランスになってお金に余裕ができたら風俗に行って性欲を発散しろと言われる
○聞きたくもないセックスをした人数の自慢をされる
○女遊びをしないと、成功できないなどと教えられる
○聞きたいとも思ってないのに、漫喫に女性を連れ込んでフェラチオさせた話を聞かされたり、子持ちの女性とラブホテルでセックスした話を聞かされる
○下ネタの話になると、何かと自分に話が振られる
○間違ってることを間違ってると伝えても、受け入れてもらえない
○仕事と恋愛は似ているという理由で、不特定多数の女性を捕まえてセックスをしないと人間的に成長できないなどと教えられる
○仕事でお金を無理に使わせられる
◯仕事をする上での問題を相談しているのに、解決するために教会に行くように仕向けられる(解決策になっていない)
殆どが性に関することである。
しかも、これが同じ環境下で起こったことだ。
ハッキリいって、絶望した。
僕がここならやっと救われると思った場所もこんな酷いことをする人で溢れているのかと(まあそういった経験があって、結果的に僕は今現在性教育に携わっているのだが)。
最初はそれを理解できない自分に非があるのかと思ったが、自分なりにいろいろ調べたり、性教育に携わるようになってから知り合った人や、オンラインサロンなどで知り合った人、そういった環境じゃないところで出会った人たちと話していく中で、自分は何も間違ってないと確信に変わった。
僕は嫌だと思うことを嫌だと言ってるだけだと。
いい歳した大人たちがこんなことをやってるのかと思うと、これから世の中を生きていく人たちにはぜひお手本にしてはいけないと伝えたい人たちの例である。
別に目の前の人間にセフレがいようが、女遊びをしてようが、風俗に行ってようが、そんなことはどうでもいい。
僕は
・人に迷惑をかけない
・人を傷つけない
・法に触れない
のであれば何やってもいいと思ってる。
だから、目の前の人たちが、なりふり構わず不特定多数の人たちとセックスをしてようが、性病の管理や、避妊をしっかりしてるなど、ちゃんとするところはちゃんとしてれば文句すら言うつもりもない。
ただ、僕はセフレだとか女遊びだとかそんなことに興味はない。
心を許した相手としか、恋愛・結婚・セックスの話はしたくないし、パートナーの関係にある人としかセックスをしたいと思わない。
そういうことをいう人たちの中には、恋愛をすれば人付き合いがうまくなるだとかなんとかほざいていたが、「恋愛しないと人付き合いがうまくならない」と言ってるような人たちもいた。
というか、みんなそんな風に聞こえた。
あえて言わせてもらう。
恋愛はしなくても、人付き合いはうまくなる。
・人が喜ぶことをする
・されて嫌なことはしない
というのは、人付き合いの基本だ。
相手がどんなことをされたら喜ぶのか、されて嫌なことは何なのかは相手と接していくうちに分かるものだし、それは恋愛関係にある人じゃなくてもやることだ。
それを恋愛でしかやらないというのは、友達や親にはやらないということになるから、友達や親から見捨てられるのも、一目瞭然である。
そんな普段から人付き合いを蔑ろにしてる人に恋愛感情を持ったり、結婚したい、その人の子供を持ちたいと思うような人はいるのだろうか。
だから、彼らの言った「恋愛しないと人付き合いがうまくならない」という言葉は全くの嘘で、信用してはいけない大人の言葉の一つだ。
恋愛・セックス史上主義の人と接していると本当に疲れる。
いきなり下ネタをぶっこまれたり、何の脈絡もないのに恋愛やセックスの話をされたりするのは、誠に遺憾。
そして、告白の練習をさせられた男性の話を聞いた時は、すごく悲しい気持ちになった。
その人の味方をするわけではないが、そう言った話を聞かされるだけでも辛い。
性教育を学んで携わるようになってから心がけていることだが、自分がやったことを見せられている人はどんな気持ちになるかまで汲み取ってこそ、本当に人のことを考えられる人だ。
実をいうと、その告白の練習をみんなの前でさせられた男性とマジ喧嘩をしたことがあるが、お互いに和解して、それからしばらくしてぶつかることもあったが、二度と喋りたくないとは思わない。
僕たちはちゃんとお互い言いたいことを聞き合い、対話をしたからである。
お互いに相手を傷つけてしまっていたからこそに起こった問題であって、話の決着をつけられたからこそ元通りになったのだ。
ところが、僕に対して性に関することで傷つけてきた人は180度違う。
何よりも自分の非を認めようとしないのが一目瞭然だった。
ようは素直じゃなく、傷つけてしまったのなら謝るみたいな態度でいかにも自分を正当化し、こちらと真っ当に話をしようともせずに、やばいなと思ったのは逆ギレをかましてきたり、「そんなことでキレるの?」とまで吐き捨てた。
これでは対話になるわけもなく、話を途中で切り上げて、それ以来関わってない。
その場所には「自由」も「家族」のようなつながりもなくなったし、「希望」が絶望に変わった
こういう人たちのいる環境にいて約4年間過ごして分かったことは、こんな人たちがいるこの環境に、希望はなく、家族のようなつながりを感じている人もいないし、自由もないということだ。
その環境は相手に与える人が成功できるとか豊かになれるとか言っている人が何人かいるのだが、その意味を履き違えている人が殆どだ。
中には自分が相手に何も与えようともせずに、「教えて、教えて」と媚びてくるような人もいた。
何でも教えるのはその人にためにならないと思い、すぐには教えなかったら、今度は何かと教えてもらおうと僕を何かと罵り、聞き出そうとしてきた。
正直に半殺しにしてやりたいと何度も思った。
そして、今やそんな人たちの殆ども聖書を学び始めたんだとか。
その聖書を読んでる人たちはよく、自分の中に起こった苛立つこと嫌だなと思ってることがあるのであれば、その傷を癒しなさいとか言う。
中には、自分たちが悪いことをしてるのに、人は間違いを犯す生き物だとか能書きを垂れて、自分たちは何も悪くない、傷を癒さないやつが悪い、みたいなそんな言葉で片付ける人もいた。
「は?」
別に聖書が悪いわけでない。
聖書を学んでいる人がダメだとも言いたいのではない。
自分の非を認めずに不都合なことがあると、すぐ聖書の言葉を使って相手がなんで不快に思うのかを考えずにやり過ごそうとすることにはさすがに目に余るものがある。
人間誰だって間違うものだ。
ただ、同じような間違いを何度もするようなら、さすがに目に余るものがある。
一度や数程度で直るぐらいならまだ僕もこんな長文を書くようなこともなかっただろう。
しかし、現実は違う。
数ヶ月とか1年とか、最悪それ以上も続いた。
何で間違えたのかを自分が分かってないといけないし、反省しないとまた同じことをしでかすのは説明しなくとも分かるはずだ。
仕事をしている人間なら尚更だ。
会社の社長からしたら、度が過ぎるほど同じような間違いをする人には心を鬼にして叱るはずだし、直らないようならクビにだってすることだってあるだろう。
こんなことは聖書を学んでない人だって分かる。
聖書のことを1ミリも知らない人間からすれば、何のために聖書を学んでいるのかが分からない。
学習能力が低過ぎる。
僕より下の世代の人たちには、こんな大人にはならないでほしい。
特にムカついた人の数名にはこれ以上言っても伝わらないだろうなと思ったから、恐喝紛いのLINEを送って黙らせた。
また1からやり直す。そして、「決断の時」
そんなこんなで、僕がいたその環境は離れて、今は別の環境にいる。
仕事についてのことなのだが、これまで述べたように、仕事の環境でそういったことが起こっていたのだ。
仕事の環境だから、仕事のことをガミガミ言われるのは別に問題ない。
しかし、仕事のことを学びにきているのに、プライベートのことをガミガミ言われるのは、ありえない。
仕事の環境では、仕事にだけ集中すればいいし、プライベートの話なんて、話したい人にだけ話せばいい(だから、会社の飲み会が嫌いなのだが)。
僕が今いる環境は、過去に苦しんでいた環境より見違えるほど違う。
確かに初めて会った時はお互いのことが分からないから、新しい環境で出会った人も下ネタを言っていたが、その下ネタに不快になった覚えはない。
また、その環境で出会ったとある女の子と初めて会った時は僕が性教育をやってるというと、本当は下ネタが好きなんじゃないの?と言ってきた。
その時、確かに嫌だなと思いはしたが、そう思ったのはその時だけである。
次会った時は全くなくなった。
先程も書いたが、一度や数程度で収まるのであれば問題ないし、僕だってすぐ怒りがなくなる。
・何度も同じようなことをしてくる
・自分が相手に対して迷惑行為をしている
・自分の非を認めない
から憤りを感じているのだ。
そして、何回か接していくうちに僕がそういうことに苦しんできたことも分かってくれるようになり、時には僕に分かるように露骨に下ネタを言わないように場の雰囲気を作るような素振りを見せてくれたりもした。
逆に僕がその環境にお邪魔してる身なのに、そんなこと気にしなくていいからとまで言ってくれた。
その人たちの普段のテンションがあるのに、部外者の僕がそこに来てテンションを狂わせられるわけなのに。
しまいには、そういうのを知った上で、会わせたら大丈夫な人、会わせたらまずい人まで考えてくれているのだ(器が広い人ってこう言う人のことを言うのだろうか)。
先ほども書いたが、セフレがいることだとか、女遊びをしてようがかそんなことはどうだっていい。
もちろん下ネタを言うのもどうでもいい。
そこに自分を含めて傷つく人がいるのが不快なのだ。
仕事も僕たちがいた環境とは180度違うようなやり方をしていて、
・集まりには行かない
・大きなイベントにも行かない
・デモみたいなこともしない
・目上の人が言ったやり方を鵜呑みにしない(完コピしない)
というスタイル。
そして、ある人はこういった。
「違う方法で成功したら面白いじゃん」
その言葉を聞いた時、僕はこの人についていこうと心の中で思った。
それからはその環境の人がやる勉強会には極力顔を出しているし、その人には本気で恩を返したいと思ったし、その環境の人たちを誰一人として傷つけないようにしようと誓った。
元々いた環境で失った「希望」、「家族」のようなつながり、「自由」を取り戻したし、この環境には夢がある。
また僕が立ち直れたのはここの環境で出会った人たちのおかげだ。
だから、今ここで、決断する。
もうあの辛いとしか感じられなくなった場所を離れることにした
多分、あそこの人たちと必要以上に関わることもないだろう。
中には、今更になってちゃんと話をしようと言われたが、何様のつもりなのだという気持ちしかない。
その環境から消えたのを見て傷ついたとか、悲しくなったとか言われたが、こちらはあなたたちの100倍は不快な思いをしているのだ。
だから、僕が今いるこの場所で自分のやるべきことを全うすることにする。