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挫・人間というロックバンドについて

先日、渋谷CLUB QUATTROでおこなわれた挫・人間のライヴを観た。

ただし配信で。

この日、僕はどういうわけか原宿でバーバリーのパーティーに紛れ込んでおり、ライヴを見逃していたのである。

おしゃれなモデルさんやアパレル関係者たちがごった返すクラブで、
お母さんが昔買ってきたチェックのネルシャツ(肘のところが破けている)を身に纏った僕は、場違いというかハッキリと異物混入みたいな感じだったが、
でも僕は音楽が鳴っている限りはあらゆるすべてのことが本当にどうでもいいので、バーバリーのチェック柄のスピーカーの前に立って、
最初から最後まで酒も飲まずに踊り続けたところ、DJのひとに褒められたりして、ふつうに結構いい夜だったのだが、まあ僕のことはどうでも良い。


ここでの焦点は原宿ではなく渋谷、バーバリーのパーティーではなく挫・人間のワンマンだ。

ライヴの感想を書こうかとも思ったが、配信でライヴを観てその感想を書くというのもちょっとどうかなという気がするのでやめにする。
ただ一言だけ、感想というか印象を述べるならば、おろかだと思った。
おろかで、美しいと思った。
そしてそれは今に始まったことではなく、最初の最初の最初っから、
彼らはずっと、おろかで美しかったのだと思った。


本稿では、挫・人間というバンドについて僕が考えていることを書くことにする。

僕が彼らを初めて観たのは、2012年の新宿JAMでのイヴェントだ。
当時僕がやっていたバンドで、挫・人間と共演したのである(といっても、一日がかりのイヴェントで出演者が三十組とかいたので、共演というほど大それたものではないが)。
そのとき僕は彼らとは一言も会話を交わさなかった。
ただヴォーカルの下川君の、神経質そうな眼光だけがものすごく印象的だった。


仲良くなったきっかけは2015年の下北沢ベースメント・バーでのイヴェントである。
僕はどういうワケかこの日ヒップホップ・ユニットで出演しており、
これまたどういうワケか下川君と前ベーシストのアベ君が『山のような糞』というユニットで出演していた。
山糞はものすごくいいライヴをしていた。僕はずっと最前列で踊った。


終演後、打ち上げにも参加せずにライブハウス前のコインパーキングでしゃがみ込んでいた下川君に『ライヴ最高でした! マジで糞でした!』と声をかけたところ、あの特徴的なニヤニヤ笑いで『ありがとう』と答えてくれた。その瞬間、僕はこの人と仲良くなるだろうという確信をしたが、果たしてそうなった。

そのイヴェントからほどなく、新宿の喫茶店で下川君と話す機会があったのだが、会って3回目にしてサシで二時間近く盛り上がり、確信は単なる事実へ変わった。しかもそれから数年経つのに、二人で遊んだのはそのときだけである。しかも全然会わない。一年に2~3回会えばいい方である。でもムチャクチャ仲良いと自信を持って言い切れる。肉体関係を持たないセックスフレンドといっても過言ではない(仲良いのか? それは)。


僕は挫・人間が好きだ。どのぐらい好きかといえば、僕は28歳のときに父を亡くしたのだが、その五日後ぐらいに挫・人間のライヴに行ったほどである。

これはお涙頂戴のウェット・パフォーマンスなどではなく、単に“喪に服す”という感情が欠如した野蛮さの証左であり、世間一般からみるとあまりよろしくない振る舞いなのかもしれないが、でも仕方ない。

父が死んだとき、僕は真っ先に『音楽を聴きたい』、『友達に会いたい』と思ってしまったのだから。それだったらもう、ライヴハウスに行くしかねえだろうよ。
普通に良いライヴで、普通に酒を飲んで、普通に遊んで、つまりは普通に楽しかった。
どれほど悲しみに暮れていたとしても、楽しむことはできるのだということをそのとき僕は痛感した。


なんだって楽しめる。生きている限りは。それは後ろめたくて、けれども気持ちいい、人間の業だ。


音楽を単なるBGMとして消費するか、無限のアンセムにアップグレードするかはいつだって己次第である。いささか禅問答めいた言い方になるが、『音楽で問題を解決する』ためには『音楽で問題を解決できる人間』になる必要があるのだ。

それからまあ色々あって、アベ君が脱退し、新ベーシストとして声児が加わった。
彼は僕が昔やっていたファンクバンドのベーシストであり、今も中華一番というヒップホップクルーで活動を共にし、何ならかれこれ二年近く一緒に住んでいるうえ、一時期などはバイト先まで同じだったのでまさしく『親の顔より見た顔』である。


彼が加入したあたりから挫・人間は急展開の連続を続け、なんとこのたびギターの夏目君が脱退するという。

正規メンバーがヴォーカルとベースのみ。ということはつまりドリカムと完全に同じ編成ということだが、ドリカムが揺るぎない盤石を誇っているように、彼らもまたしぶとく活動し続けるに違いない。
挫・人間は何食わぬ顔で平然と続いてゆくはずだ。
犬が吠えてもキャラバンは進む。
まあ少なく見積もっても百二十年、医療技術の進歩如何によっては四~五百年ということもあり得るだろう。

下川君と声児は、もう何から何まで全部真逆の存在のように見えるし、実際けっこうな割合でそうだとも思うが、ものすごく似ている点がひとつある。
下川君も声児も『人前で泣くことができなかった』ヒトなんじゃないかと思う。
それぞれ理由は違うかもしれないが、たぶん彼らは、人前であまり涙を見せてこなかった。
『泣かない』ということはシンプルに抑圧であり、抑圧された感情は出口を求め、
やがてとんでもないところから噴き出す。
トラウマの噴出。それこそが挫・人間のセントラルドグマであると思う。


『世間は過酷だし、人生はクソだし、俺はダメ人間だ。でも……』の、
『……』の後に連なるナイーブな自尊心と、清々しいほど支離滅裂な逆ギレ。
それはかつて太宰治や坂口安吾といった無頼派の作家、
藤子Aや松本零士、大槻ケンヂや伊集院光がやってきた仕事であり、
彼らもまた、その系譜に属する表現をおこなっていると思う。

狂気とセンチメンタルを行き来するその強烈な自我は、
何かを否定し続けることで、ソレよりもっと大きな何かを肯定しようとしている。


これからの彼らがどんな展開を見せるか、僕は気になってしょうがない。
といっても結局、ステージで見せるものはずっとずっと最初のときから少しも何も変わらないのかもしれない。
不純で正しい、おろかな美しさ。人間の業。毒をもって毒を制すトラウマの芸術的昇華。
僕はそれを期待しているし、すばらしいと思う。


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