SOULFUL NOVEL 『JOINT』 #3
これは音楽と、時間と、そして友情についての物語である。
#3 .WHO
深夜0時46分。スナコは”水木荘”の201号室に数日ぶりに足を踏み入れた。その足取りはしっかりと力強く——いや、誰がどう見てもあきらかに千鳥足だった。スナコはイナバと夕刻に別れてからこの時間まで、ありとあらゆる手段を用いて己をブチ上げまくっていた。
まず友人の美容師の店へ繰り出して毛先にピンクのカラーを入れてもらい、それから日頃世話になっている古着屋の店長に泣き落としで焼肉を奢らせ、さらには知り合いのバンドマンがやっているバーで芋焼酎のソーダ割りを痛飲し、トドメに家まで帰ってくる間にコンビニに三回寄り、そのたびにレモンサワーを買っては飲み干した。道中ではずっとイヤホンをつけて、このところテンションをブチ上げたいときに聴いているザ・マジック・ツインズの『ハッピー』をエンドレスリピートしていた。そんな調子だったもんで部屋にたどりついたとき、スナコはすでにベロンベロンのバッキバキ、完全に仕上がりまくった状態であった。瞳孔をカッ開いて周囲に殺気を振りまく一匹の獣と化していた。玄関扉を開けるなり、スナコは虚空にメンチを切りながら真っ赤な顔で凄んだ。
「あ゛あ゛ン!?」
帰宅時の第一声が”ただいま”でも”疲れた〜”でもなく、“あ゛あ゛ン!?”なのは相当仕上がっている証拠。スナコはスニーカーを脱ぎ捨てると、荷解きも終わっていない部屋にズンズン入っていった。そうして灯りをつけたのち、室内灯からブラ下がるヒモを相手にシャドー・ボクシングを始めた。
「シッ! シッシッ!」
シャドーを終えるとスナコは額に滲んだ汗を拭い、段ボールにどっかりと腰掛けてタバコを吸った。そうして紫煙をくゆらせながら、黄ばんだ壁をジッとにらみつけた。
——やるならやってみろ幽霊さんよ。お前のピアノを聴かせてくれよ。いざ尋常に勝負。
しかし、その威勢の良さとは裏腹にスナコの膝はカタカタ震えていた。ハラを決めたつもりでも、こうして部屋で一人きりになると恐怖心が滲んできた。彼女の名誉のためにこれだけははっきりと記しておくが、スナコは決してビビりなどではない。むしろその逆、血気盛んで向こう見ず、子供のころから無鉄砲で損ばかりしているタイプの人間である。ライヴ後の打ち上げで行った居酒屋で、対バン相手と口論になり大立ち回りを演じたことも一度や二度ではない。だがしかし、ホラーの類はめっぽう苦手であった。うっかり怖い話でも聞こうものなら、その日お風呂に入ってシャンプーするときは必ず競泳ゴーグルを装着した。目を閉じるのがマジで怖かったからである。お化け妖怪都市伝説、とにかくこの世ならざる怪異をスナコは何よりも恐れていた。
それでもスナコは逃げ出したくなる気持ちをグッと抑えて、まんじりともせずに“その時”が来るのを待った。誰もいないはずの隣室からピアノが鳴り響くその瞬間を。しかし、待てど暮せどピアノの音は響かなかった。スマホを取り出して時間を見てみるともう二時になるところだった。今晩は現れないのだろうか……ホッとしたような落ち着かないような、なんとも複雑な気持ちで舌打ちしながら頭を掻きむしると、スナコは自分が空腹であることに気づいた。
——うわ、腹空いた。味濃いモン食いてえ。とにかくめちゃくちゃ味濃いモン食いてえ。
かといってコンビニに行くのもめんどいし、せっかく勇気を振り絞ってこの部屋に帰ってきたのに一旦外に出たらもう戻ってこれないような気もした。取り急ぎ冷蔵庫の中を見てみると、豚の角煮が入ったタッパーがあった。そうだ、王さんからもらった角煮があったんだった。スナコは小さくガッツポーズを取ると、キッチンの引き出しから割り箸を取り出し、段ボールに座って豚の角煮を食べようとした——。
グガーン!!!!!!!!!!!
叩きつけるようなピアノの音が突如鳴り響き、スナコは驚きのあまり角煮を取り落としそうになった。ばくばく波打つ心臓を抑えながら、スナコはおそるおそる部屋の壁を見つめた。
——ついに始まったか。
スナコは角煮を置くとスマホで録音を開始し、電子ドラムの前に座ってスティックをぎゅっと握りしめた。しかし”幽霊”は、その後いくつかの和音をぱらぱら弾いただけで、すぐさま演奏をやめてしまった。不穏な静寂がじんわりと広がり、やがて部屋いっぱいに充満した。いささか拍子抜けしたスナコは、半ば呆れたように一人ごちた。
「……いや、弾かないんかい」
そして大きく溜息をつきながら頭を掻きむしったとき、隣室から声が飛んできた。
「誰!?」
その若い女の声は明らかに驚いていた——もちろんスナコもまた驚いていた。スナコはイナバが語った、“怪奇現象はその場所に録画・録音された記録が再生されているだけ”という仮説を信じきっていたので、まさか向こうからそういう感じで絡んでくるとは思っていなかったのである。スナコはどうしたものか迷ったけれど、思い切って普通に返事してみることにした。
「え、あ、いや……あの、201号室に住んでるー、成宮っス……」
「あっ、お隣さんですかぁ。夜分遅くにごめんなさいー。音、うるさかったですよねえ」
そのイントネーションは明らかに関西のものであった。しかし少なくともこれでイナバが語っていた仮説は完全に当てはまらないということがわかった。普通にコミュニケーションが取れるという予想外の展開にスナコはかなり困惑していたが、恐怖心はだいぶ薄らいでいた。女の声は朗々とした生気に溢れていて、不気味さは少しもなかった。
「いや……うるさかったっていうか……まぁ……びっくりはしたっス、けど……」
「ホンマ申し訳ないですー。びっくりしますよねえ、こんな夜中にピアノがグガーン! とか鳴んの、ホラーすぎるもんねえ」
「んー、まあ、ホラー……そう、ね、ホラー……っスね……」
「べつに言い訳するつもりちゃうんすけど、隣の部屋、ずっと空き部屋やと思てたんですー」
「……え?」
「ここ越してきたん半年ぐらい前なんやけど、隣が空き部屋やったから好き放題楽器鳴らせんなー思てこの部屋にしたんですぅ、まさかお隣さんいらっしゃったとは知らんでエライ迷惑かけてまいましたぁ」
スナコは混乱した。相手が何を言っているのかさっぱりわからなかった。誰もいないはずの隣室からピアノの音がした。ここまでは一億歩譲ってまだいいとして、そのピアノの演奏者が声をかけてきた上に、隣室は誰もいないという。スナコが動揺して声も出せずにいると、女はさらに続けた。
「でもここ、壁うっすいなぁ。こんなフツーに会話できんのありえなすぎやろ。築十年ぐらいでまだそんなボロくないのになぁ」
「……ち、築十年?」
そんなわけはない。誰がどう見たって軽く築五十年は超えている。廃屋一歩手前のこのアパートを“そんなボロくない”というのは、どれだけオブラートを重ね着させようと無理がある。お世辞を通り越して皮肉でしかない。だが女は、不思議そうな声でこういうのだった。
「あれ? ちゃいましたっけ? 不動産屋から1970年頃にできたアパートって聞いてたんやけど」
「ちょ、ちょ、ちょっと待って。1970年? いま1970年って言った?」
「うん。あ、でもひょっとしたら1970年やなかったかも。69年だったかもしらん。とにかくたぶんその辺」
「1970年が、十年前? 1970年が十年前って、どういうこと?」
「どういうことも何も、1970年は十年前やろ。いま、1980年やん」
「せんきゅうひゃくはちじゅうねん!!?」
スナコは思わず声を張り上げた。いったい何がどうなっているのか、ますますわけがわからなかった。
「わ、びっくりした。急に大声出さんといてやぁ」
「1980年ってどういうこと!!?」
「1980年ってどういうことって……フツーに今年、1980年やん。来年が1981年で再来年が1982年、ささ来年が1983年」
「え、あ、え、あ、あんた何言ってんの?」
「何言ってるって何やねん。めちゃめちゃ当たり前のこと言うてるだけやん」
「な、な、何言ってるかさっぱりわかんねーよ!」
「いやこっちもや。ナリミヤさんやったっけ、ナリミヤさんがどこでつまずいてるのかこっちとしてもさっぱりわからへんわ」
「それって……それってつまり……あんた……あんたは……」
「そんな気安くあんたって連呼せんでやぁ」
「え〜〜〜っと……あなた、様は……」
「うやうやしすぎや。いくら何でもへりくだりすぎや」
「じゃ、じゃあ何て呼べばいーんだよ?」
「オトクラ。うちの名前はオトクラといいます」
「オツクラ?」
「ちゃう、オ、ト、ク、ラ。音楽の音に、倉庫の倉でオトクラ」
「あっ、ごめん、お、オトクラ、さん……」
「そう。音楽の音に、倉庫の倉でオトクラ」
「じゃあ、つまり、オトクラ、さんは、1980年の人間ってこと……?」
「何言ってんねん。そんなん当たり前やろ。1980年の人間じゃないヒト、地球上におらんやろ。お姉さん、浦島太郎みたいなこと言うなァ。いつの時代のヒトやねん」
そういって女——オトクラはケラケラ笑ったが、スナコは笑うところではなかった。スナコが口も利けずに硬直していると、壁の向こうでオトクラがぱちんと両手を打ち鳴らした。
「あ。ほたら、せっかくやし、今からちょっとご挨拶に伺ってもええ?」
「え!?」
「お隣さんやし、これから色々ご迷惑かけることもあるかもしれんし。こないだ実家から送られてきた梅干し持ってくから」
「い、いや、いやいや、それは」
「あ、梅干し嫌いやった?」
「いや、そういうことじゃなくて」
「人からもらったバームクーヘンもあるけどそっちのがいい?」
「いや、そういうことでもなくて」
「わかった。梅干しとバームクーヘン両方持ってくわ、オトクラさん欲張りやなぁ」
「いや、だから梅干しとかバームクーヘンとかそういう次元の話じゃなくて」
「一瞬やから。別に部屋上がりこんだりせえへんから。ほんじゃちょい、そっち行くなぁ」
言うが早いか、壁の向こうでパタパタ駆け出して行く足音が響いた。スナコはすっかり怯えていた。そうして汗をびっしょりかきながら、身じろぎひとつせずにじっと部屋の扉を見つめた。一体何がどうなってる。誰がやってくるんだ。スナコは拳をぎゅっと握りしめ、まばたきひとつせずに扉を見つめ続けた……
「あれ? あれ? あれあれあれ? おかしいな?」
壁の向こうからふたたびオトクラの声がした。
「いま、そっちの部屋行ったら、明らかに誰もおらんかったんやけど……ていうか、余裕で空き部屋やったんやけど……」
オトクラもまた、混乱しているようだった。スナコはおそるおそる真実を述べた。
「あ、あたしから見ると、そっちの部屋……202号室、空き部屋、なんだけど……」
「……それって」
オトクラはそこで言葉を切ると、しばし黙りこくった。スナコは何も言えずにじっと壁を見つめた。スナコから見ればオトクラはいない。オトクラから見ればスナコはいない。でも壁越しに声だけが聞こえる。これは一体どういうことだ? スナコが考えを巡らせていると、オトクラがふいにぽつりと尋ねた。
「……いま、西暦何年?」
「え?」
「ナリミヤさんは、西暦何年の人間なん?」
突然の質問に困惑しながらもスナコは正直に答えた。
「いまは……西暦、2024年……だけど」
スナコが答えると、オトクラは大きくため息をついた。
「……マジかぁ。マジかぁ。さっきまでの会話の流れ、それで一発で納得したわ。そゆコトかぁ」
「そういうコトって、何が?」
「こんなんSFやん。ホラーかと思わせといてまさかのSFな展開やん……」
「だから、何がそういうコトなんだよ!?」
「……あんな。たぶんこれ“音漏れ”が互いにタイムトラベルしてんちゃうか」
オトクラの予想だにせぬ考察に、思わずスナコは呆けた声をあげた。
「った、た、タイムトラベルぅ?」
「せや。この壁がなんやタイムマシンみたいなパワーを発揮して、うちらの声とか部屋の物音だけが時空を超えて届いてんねん」
「そんなことできんの?」
「いや知らんけど。知らんけど現にそうなっとるやん。うちの声は四十四年後に、ナリミヤさんの声は四十四年前に。そう考えなきゃ説明つかんで、これ」
「……いや、いやいやいや、タイムマシンて……そんな……ありえないって……」
「ウチもそう思うけどな、世の中は何だってありえるんや。何だってありえるって信じてる限りはな。たぶんコレ、虚時間が発生してるんや」
耳慣れないことばにスナコは首をひねった。
「キョジカン?」
「えっとな、簡単に言うと、ローレンツ変換の不変量の四次元距離によれば、時間と空間は対称やなくて、正負の符号が逆になってるんや。そこで虚数時間として τ = it を導入すると、虚数時間のc……光の速さやな、C倍と空間との間に対称性が成立する。つまり、四次元ユークリッド空間として扱えるってコトや」
「……さっぱり意味わかんねーんだけど」
「あれ、むつかしかった?」
「難しいとか超えてた。日本語かどうかもわかんなかった」
「えーっと……ナリミヤさんは、この宇宙がどー始まったか知っとる?」
「なんで急に宇宙のハナシ? 宇宙とかいま関係ねーだろ、絶対」
「関係あんねん。ていうか宇宙が関係ないことなんてこの世にないで。マジで全部最終的には宇宙と関係あるから」
「マジで言ってんの?」
「マジで言うてる。んで、ナリミヤさんは宇宙の起源って知ってる?」
「なんだっけ……たしか、ビッグバン、ビッグバンが起きて宇宙ができたんだろ?」
「ん、それは仮説のうちのひとつ。この宇宙がおおよそ138億年まえにできたっちゅうんは共通の見解やけど、どうできたか、というコトについてはめっちゃいろんな説があんねん」
「そんなん初めて聞いた」
「こんなん初めて話した。んで、虚時間はその仮説のうちの一つでな、138億年前に時間軸が虚時間から実時間に変わってこの宇宙ができたっちゅう説なんや。過去から未来へ時間が流れて行くのが実時間。これに対し虚時間は過去と現在と未来が同時に存在してる。つまり、時間の概念自体が存在せえへんねん」
「……え~っと、ああっと、そ、それは、つまり……あたしとオトクラさんの部屋が、その宇宙のはじまりの、キョジカンっていう状態になってるってコト?」
「まあ、あくまで現段階ではそう考えられるってハナシやけどな」
そしてオトクラは続けた。
「んとな、めっちゃカンタンにいうと、一枚の紙に二個、点を書き込むとするやろ。片っぽが1980年、もう片っぽが2024年や。一センチが一年としたら、二個の点はどんぐらい離れる?」
「…………よ、44センチ……?」
「せや。この点と点は44センチ離れてるけど、紙をうまく半分に折り重ねると、点同士でぴったりくっつくやろ? そういう時空の歪みが起きてるって考えたらええ」
「……なんでそんなコトになってんの?」
「知るか。知るワケないやろ。神様の気まぐれとしか言いようがないわ。まあとにかくこんなことになってまった以上はもう
そこで、電波がぷっつり途切れたみたいに、オトクラの声が急に立ち消えた。スナコは何度も呼びかけたり、壁を殴ったりしてみたが、オトクラから何か反応が返ってくることはなかった。ずっと録音を続けていたスマホの画面は、ちょうど午前三時を表示していた。
♪Sound Track : Happy / The Magic Twins
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