『アイの歌声を聴かせて』を観た
〈“見守る”と“監視”は何が違うのか?〉
先日、新宿ピカデリーにて『アイの歌声を聴かせて』を観た。監督/脚本である吉浦康裕の作品は『イヴの時間 劇場版(2010)』と『サカサマのパテマ(2013)』しか観ていないのだが、ひじょうに細やかな世界観を構築し、丁寧な脚本運びをするSF職人。という印象をもっていた。逆にいうとそのぐらいしか印象がなく、つまりはほとんど何も知らないに等しい。本作もついこないだ『砂の惑星DUNE』を観に行ったら予告編が流れていて、それで初めて知ったのだが、正直そのときは『あんまり面白くなさそうだな、コレ』としか思わなかった。だからこのときもそれほど期待することなく映画館へ足を運んだのだが、いやはや、実に気合の入った怪作であった。
本作の簡単なあらすじはこうだ。
舞台は日本、家電から家屋に至るまでAIが搭載された近未来社会。AIの研究者を母親にもつ主人公・サトミが通う高校に、母親が手がけたプロジェクトによって製作された少女型アンドロイド・シオンがやってくる。極秘テストとして派遣されたシオンはしかし完全なポンコツであり、転校初日にして教室でいきなり歌を歌い出して周囲にドン引きされる。で、まあなんだかんだ色々あってシオンがアンドロイドであることが同級生数名にバレてしまうのだが、サトミは母親が心血を注いだプロジェクトを無碍にするまいと、どうかこのことは内密にしてほしいと頼み込む。サトミとポンコツアンドロイド、そして思わぬ秘密を抱えこんでしまった同級生たちの命運やいかに…。
というのが大まかな筋書きである。
まぁこうして書くだに定番というか王道というか、いかにも“ありそう”な話だ。ティーンエイジャーのもとに謎多きストレンジャーが現れ、ティーンエイジャーたちがその存在を秘匿するべく奮闘する。というのは、『E.T(1982)』や『下弦の月 〜ラスト・クォーター〜(2004)』や『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。(2011)』などのクラシックスを例に挙げるまでもなく、ジュヴナイルのテンプレートといえよう。
では具体的にどのあたりが“怪作”なのかといえば、なんと本作はミュージカル映画なのである。ディズニー作品のようにやたらと歌唱シーンが出てくるのだが、おもしろいのは“その歌唱に完全な必然性がある”という点である。たとえばタモリは大のミュージカル嫌いとして有名だけれども、その理由として『脈絡もなく突然歌い出すのが不可解』と述べている。これはタモリのみならず、大抵のミュージカル嫌いが口にするツッコミであるが、本作はこれを逆手にとって実にうまく歌唱シーンを魅せている。
シオンは天真爛漫なポンコツAIであり、突拍子もない言動/行動で周囲を惑わすのだが、そうしたキャラクター設定をしっかり前面に押し出すことによって『いきなり歌い出す』ことへの違和感をみごとに打ち消しているし、またシオンはAIが搭載されたピアノやスピーカーや照明器具と連携し、それらを作動させることができるのだが、それによって唐突に楽曲が鳴り響いたり、照明器具が同期するといった演出にも完全な必然性をもたせているのである。
こうしたミュージカルの違和感を打ち消す作品は近年増えている。たとえば『心が叫びたがってるんだ。(2015)』は会話すると腹痛を起こすがメロディに乗せて歌えば痛くならない主人公。という設定によってこのツッコミを回避したし、『ベイビー・ドライバー(2017)』は、音楽を聴くことによって凄腕のドライバーと化す主人公。という設定によって、ミュージカル映画特有の唐突に楽曲が流れ出すという属性に必然性を持たせた。また『ダンスウィズミー(2019)』は、ミュージカル嫌いの主人公が催眠術をかけられ、音楽が流れ出すと己の感情を歌と踊りで表現してしまうようになる。という強引な設定を用いて、ロードムービー調の軽いコメディを作りあげた。本作はこうした系譜に連なる、エポック・メーキングな一本といえよう。
話は少しスリップするが、世界初のトーキー映画『ジャズ・シンガー(1927)』はミュージカル映画である。スクリーンの中から初めて発された『待ってくれ、アンタはまだ何も聴いちゃいない!』という名セリフから歌唱シーンへとなだれ込むのだ。斯様に、トーキー映画というのはその出自からすでに“歌”と密接に結びついており、映画文化は音楽のパワーを全面的に借りて、音と映像がシンクロする快楽を前面に打ち出すことによって隆盛を極めたのである。この立役者がMGM社のミュージカルとディズニー作品であったというのはいうまでもない。音と映像のシンクロ性というのは、映画という文化がもつ、ひとつの重要なテーゼなのである。
さてもう一点、この映画を怪作たらしめているポイントは、自律駆動するAIやそれによって運営されるネット監視社会をきわめて好意的に描いているところだ。細田守は『竜とそばかすの姫(2021)』のインタヴューにおいて、“自分ほどインターネットを好意的に描き続けてきたクリエイターはいない”といったが、本作における好意というのは牧歌を軽く飛び越えて、もはや妄信的ですらある。
たとえば本作には『ずっと君を見てた』というようなセリフが何度も出てくる。『ずっと君を見てた』とはJ-POPのクリシェだが、いっけんロマンティックなこのフレーズはしかし、見立てを変えればホラーめいたものになる。このフレーズは本作を牽引するキーワードのひとつともなっているのだが、これに対して素直に感動し、涙を流す観客もいる一方で、『え…いや…怖くない?』とおぞけを振るう観客もあるだろう。いっけんロマンティックかつ感動的なドラマでありながら、見方を変えれば立派なSFホラーとしても成立してしまうこのリバーシブル感覚。人間になりたいと願うアンドロイドを描いた『アンドリューNDR114(1999)』もまさにこうした作品であったが、本作に登場するオタク青年の部屋にこの映画のポスターが貼ってあるというのは偶然ではないだろう。
また本作においてシオンを演じた土屋太鳳の演技たるや本当にすばらしい。これまでの土屋太鳳ワークスの中でも最高の仕事のひとつ、と断言してしまってもいいのではないだろうか。無機質かつ無垢、孤独ながら天真爛漫という相対するパーソナリティを表現しきった演技力もさることながら、特筆すべきはその歌唱シーンだ。おそらく波形修正をほとんど施していないと思われる歌声は“玄人はだし”の領域をゆうに超えて、『普通に歌手としてイケまくり』というレヴェルに達している。これまで主だった音楽活動をしておらず、映画主題歌やドラマオープニング曲を歌うのみにとどまっているというのが驚異的だ。“土屋太鳳のスキルハンパねえ”というのは、松たか子のレリゴーを楽勝で超える衝撃だった。
最後に、本作のタイトルに冠される“アイ”だが、これは楳図かずお先生の歴史的名作『わたしは真悟』のラストで出てくる“アイ”とまったくの同義である。ここでの“アイ”はいくつものミーニングをもつが、それらすべてが完全に共通している。これもおそらく偶然ではなく、吉浦康裕は『わたしは真悟』を多分に意識していると思われ、オマージュ的なシークエンスがいくつか見られた。
本作に対して素直に感動するか、もしくはホラーだと思うか、それを確かめるためだけに映画館に足を運ぶ価値は十二分にあるだろう。感動で涙を流したとしても、恐怖に鳥肌を立てたとしても、いずれにせよ貴方は幸福な観客である。