図鑑少年のみた〈黄昏〉 ― 香山滋「ソロモンの桃」論
図鑑少年のみた〈黄昏〉
― 香山滋「ソロモンの桃」論
天久高広『2億年後の博物誌』は、みる人の想像力を強く刺激する作品集だ。ギリシャ神話に登場する架空の生き物が、現代から2億年後に化石として発掘されたという設定のもと、天使、ペガサス、牧神といったモチーフを化石というかたちで捉えなおす試みは、実際にはいるはずのない、彼ら、幻の生物たちが実際に存在しているかのように感じられる。そう、化石が存在するということは、なんかしらの形でこの世界に生きているということの証なのだから。
まじまじと手元にある作品集と作品、スフィンクスの一種の化石を眺めていると、時間と生命の関わり方について考えている自分に気がついた。ロード・ダンセイニの創作神話集「ぺガーナの神々」に登場する死神ムングを例にとるまでもなく、時と死神は親和性が高い。時間は有限の存在を滅びへと誘うものである。結果、時間は鎌をもった髑髏という死神の像をむすぶ。だが、時間とは存在を確定する効果をもつ。化石とは、かつて存在したからこそ誕生するモノだ。『2億年後の博物誌』とは、時間の事物を固定化する機能をいかした作品群である。時間は巻き戻すことはできない、不可逆的なものだ。過去とは確定した現在であり、変更、取り消しがきかない。だが、未来は不確定要素に満ちている。いかなる可能性も許容する場が未来ともいえる。つまり、2億年後という圧倒的な未来から、いま、現在をとらえることで、過去属性を現在進行形の時間帯に付与することで、時間の内実を変化させる『2億年後の博物誌』とは、時間の特性を巧みにいかした試みだ。『2億年後の博物誌』とは、みえないもの、存在しないかもしれないものに形を与えるための壮大な実験ともいいうるのかもしれない。天久氏のこうした試みから私が思い出すのは、香山滋の第一長編「ソロモンの桃」である。「ソロモンの桃」もまた、過去への憧れ、理想的な時間、世界への憧れから描かれているからだ。
「ソロモンの桃」は『宝石』昭和二三年九月号から昭和二四年五月号にかけて掲載された。香山滋が得意とした秘境冒険ものに分類されるものだ。本作について、作家はこんなコメントを遺している。(『宝石』昭和三七年九月号)
初めての長編。やはり大人のお伽話です。それほど力んで書いたわけではありませんが、割合に評判が良いので、驚きました。特徴といえば、リズム等の効果を考えて、意識的に、漢語混りの古い文体を使ったことです。推理小説で言えば名探偵の、人見十吉が登場します。
作家本人は、人見十吉が登場すると述べているが、作中に人見十吉が登場することはないため、おそらく、作家の勘違いによる誤記と推定される。ただ、ここで気になるのは、「ソロモンの桃」と人見十吉ものが作家の中で同一の世界観としてとらえられているという点だ。たしかに「ソロモンの桃」は、ママ、人見十吉ものといってもよいだろう。もしかしたら、作中での主人公、マサトという名前は、人見十吉の偽名なのかもしれない。
「ソロモンの桃」は、二十五歳、マサトなる日本人男性で「世界各国から珍獣を掘り出して、D・N・Cに提供する、いわば動物収集人」たる主人公が、インドライオンの生息地捜査、行方不明となったヴァーネ・フォーンソルプ大佐探し、大パンダ熊探しの任を受け、インドへの探索行に赴き、いつしか、ソロモンの秘宝をめぐる冒険に巻き込まれていくという筋立てとなっている。物語の枠組みは、香山滋独自の味付けはあるにせよ、オーソドックスな秘境探検もののつくりとなっている。さて、主人公、マサトは、こんな特徴をもっている。
実際はまことに見すぼらしい、一介の放浪児に過ぎないのである。常に、太陽焼けのしたヘルメットと袖無襯衣とズボン一枚という軽装で、気まぐれな漂白の旅をつづけている無頼漢なのである。
ここで強調される「無頼漢」「放浪児」といった自己評価からは、人見十吉とおなじように、マサトが、一切の制約をうけない、自由な存在であるということが窺える。さらに、マサトにはこのような特性がある。
それに何より有難いのは天与の怪力であった。私はこの怪力に物を言わせ、見よう見まねで突嗟の間に象と一騎打ちをやったのだ。
だが、このたびは、それでは不足だ。その上にもう一つの条件を必要とする。若さと美しさだ。
力、美、若さという三つの条件を兼ね備えた人間として、マサトは描写されている。この観点からみる限り「ソロモンの桃」とは《青春》という一回性を描いた物語である。作家サイドから「ソロモンの桃」を評価するならば、理想化された若き自分の分身が、ありえたかもしれない冒険に乗り出すという見方も可能だろう。「ソロモンの桃」は、一回性の《青春》への抗いという側面をもっている。
次に考えてみたいのが、「ソロモンの桃」における、財宝やそれに相当する意義ある事物への評価である。前半から中盤にかけて、一瞬の熱狂のあと、冷めた感情で対象を評価することを繰り返すことが多い。例えば、砂漠の中でやっとの思いでみつけた、旧世界のままのオアシスへの見方である。
「在り得べからざるもの」の存在を容す此の魔境は、あきらかに「失われた世界」、現存する「前世界」である。
生きているものは、両生類を限度としてそれ以上高等な動物は、猿はおろか、鳥も、とかげさえも姿を見せず、植物という植物はすべてが下等な隠花植物のみの世界だ。その淋しさ、そのうとましさ。 ああ、最早此処は現世ではないのだ! 取りのこされた志留利亜の太古だ。世紀の逆転だ! 一切の生活の音響から遮断され、一鳥の羽搏きもなく、一獣の声も聞えぬ絶対の静寂境、私はついに、その寂寥感、孤独感の圧迫に堪え切れなくなって声を挙げた。
夜が明けて日が暮れる。また夜が明けて日が暮れる。それだけの世界だ。引き返すことも進むことも出来ぬ、ただ徒らにこの湖をめぐって、どうどう廻りをするばかりの世界だった。これで気が狂わずにいたければ、私達は両生類の頭脳にまで退化する以外にないのだ。
一瞬の興奮ののち、現代との相対的な比較のうえ、発見した空間、事物を否定的にとらえる志向は、ここだけにとどまらない。物語の要諦ともいえる、ソロモンの秘宝ですら例外ではない。以下、ラスト近くのヴァーネ・フォーンソルプの台詞から引用する。
俺ははからずも印度獅子探求を奇縁に、この世紀の謎を探り当てた。俺とても財宝は欲しい。だがこうして世界の眼がさぐり求め、恨みをこめている財宝に眼をつけるほど、けちな根性を俺は持っていない。俺はそれ以上のものを求めた。そしてそれを発見した! 無尽蔵の大油田だ。金ではなくて力だ! ソロモンの宝庫には黄金と金剛石が充満してはいる、だがそれはあくまで貨幣価値を持たせることによってのみ、力に還元せしめ得るのであって、それ自体はむしろ零だ。石油は違う。石油即ち力[エネルギー]だ。それはそれ自身の価値を持って存在するのだ!
心配するなよ、マサト! ソロモンの宝庫には、初めっから俺は眼も呉れていやしない。きょうこそ俺はその宝庫を爆破してしまう。ソロモン王の筋書き通りにさ。なまじっかそれが存在するばかりに世界の人々が六十世紀にも亙って苦しい夢を夢みつづけて来たのだ。ついでに此の王宮も、三つの山も、天空に飛散してしまえだ! ハタの胸は秘宝の鍵を秘めたまま、お前の腕に抱かれるのだ。な、それでいいんだろう!
前世界のオアシスもソロモンの秘宝も、主人公と〈対立〉するものであったが、現代の価値観との対比の結果、相対化された形で把握されるという〈融和〉のような動きとなっている。これと呼応するかのように、「ソロモンの桃」では、敵、味方の立場が頻繁に入れ替わる。最終的には、ソロモンの秘宝の守護者も、ヴァーネ・フォーンソルプ大佐も和解し、マサトとヒロイン、ハタは結ばれることとなる。このような《対立》から《融和》への関係性の変化にはなにが投影されているのだろうか。ここには、戻りえぬ過去を相対化することによって、いま、生存している時代を肯定的に向かい合おうとする作家の意志がある。ありえたかもしれぬ青春賛歌の側面がここにはある。思えば、マサトは、ひたすら《前進》することを意識つけられた存在であった。
私は並んで歩き出した。悪夢よ、さらば! 私は私の道に出発する。前進あるのみ!
おまえはいつそんな弱気を起こしたんだ。おまえはそんなだらしのない男じゃなかった筈だ。良心だって? 道徳だって? ふふ。そんなものは世間でだけ通用する世渡りの便宜のための鑑札だ! 捨ててしまえ、そしておまえはひたむきに前進すればいいんだ。
「ソロモンの桃」の作中で、強調される《前進》に託されたものはなにか。簡単にいえば、戦後という新時代への共感であろう。《対立》から《融和》という形で示される志向には、戦前、戦時からあらゆる束縛が消えた戦後への思いが投影されている。マサトもまた、あらゆるものから自由であろうとする存在である。作品世界に頻出する《無思想性》には、戦後直後の解放感がママ投影されているのだ。香山滋の文学を《憧憬》の文学と評価したのは、間羊太郎である。
香山滋氏の作品は、全て〈憧憬〉から出発している。(略)それらは凡そ次の要素から成立している。即ち、生きている化石に対する郷愁、未知の土地[テラ・インコグニータ]への憧れ、そして理想的女性像の夢である。これを抽象的に表現すれば、〈ロマン〉と〈空想〉と〈愛〉と言うことができる。私はこの三つの要素をまとめて〈憧憬〉という言葉で表現したいのだ。
「ソロモンの桃」の作品構造をふりかえったとき、間羊太郎の指摘する要素をすべて満たしていることに気付くだろう。とりわけ〈愛〉のウエートが大きいように感じらられる。
まことにソロモンの秘宝とは、ハタの胸にソロモンの桃の形を以て象徴される―愛―であった。―愛―こそは、人の世に於ける形なきソロモンの秘宝である。
人見十吉ものから「ソロモンの桃」に至るまで、物語の駆動力のひとつとして、登場するヒロインとの〈恋愛〉が大きなウエートを占めている。あらゆる思想、信仰におよることがない作品世界のなかで、露骨な官能性と交錯する形で〈愛〉の賛歌が語られるところにも、新時代への予感のようなものが立ち現れているように感じられる。新たな世界を育み得る最小単位は、男女一対であるという見方もできるからだ。
戦後直後という混乱のなかで、前時代からの解放という明るさを反映した側面が「ソロモンの桃」にもみられるといえるだろう。
「ソロモンの桃」に頻出する、博物学的記述について考えてみたい。例えば、こんな記述だ。
嘗て英のジョンストン博士によって発見せられた奇獣オカピア・オカピをコンゴーの奥地で大量生捕したり、既に絶滅したと信じられているエレファス・アンティクス(マンモス象の一種)をバイカル湖畔で発見し、世界の学会を呀っと言わせるような業績も稀ではない。
殊に世界的珍獣として、その正体すら明確には研究されていないPereDavidDeerの原産地を突止めて、その自然繁殖地に探検隊員を導いてやった時には、英のベットフォード公爵から是非自分の研究所に入所して欲しいという丁重な招聘をさえ受けたものであった。(略)私はこれを見事、中亜ウズベックスダンのサマルカンド附近の沙漠中で発見したのであった。
例として二か所あげたが、これらの記述が、虚実綯交ぜになっていることに初読で気付く読者がどれだけいるのだろうか。まず、オカピに関する来歴は事実だが、マンモス象の生き残りについての情報はまったくの虚構である。四不象についての記述は、野生種は完全絶滅しており、現在に至るまで飼育下の個体しか確認できていない。この野生種の発見というマサトの業績はフェイクである。このように、香山滋の博物学的記述は、フィクションのなかに事実が巧妙に織り交ぜられている。私が香山滋作品に驚嘆するのは、戦前、戦時と自然科学の情報が現在よりも入手困難であった時代に、これだけの該博な知識を吸収していたという事実そのものである。『前世界史』からはじまる香山滋の自然科学への興味は、積極的な海外文献の収集、読破という形で具体的な像を結んでいたと想像される。こうした自然科学への強い興味という根をたどっていくと、私は、はじめて動物図鑑や古生物図鑑を読んだときの興奮にいきつくように思うのだ。幼き日、多くの読者が、図鑑少年、図鑑少女であった時期があったはずだ。そのときに感じた万能感、世界を我が手にしたような感覚、そうしたものをダイレクトに反映したところが、香山滋作品には存在する。だが、図鑑はまた、冷徹な事実を読者に伝える。地球誕生から現生にいたるまでの歴史は、都度の生命体の栄枯盛衰の繰り返しであり、人間もまたそのサイクルから逃れることはできないということを。香山滋の文学は、自然科学の本の読後感がもたらすような、万能感と虚無感から出発しているのではないだろうか。例えば、生きた恐竜がみたい、絶滅した、ドードー鳥や巨鳥モアの生きている姿をみたいという願望をもったとしても、〈時間〉を巻き戻すことができないのと同時に、その時代、舞台に人間の居場所がないことにも気づく。恐竜が栄えた白亜紀では、哺乳類は小型のものに限られ、人類未踏のニュージーランド、マスカリン諸島は、人類がたどり着くことを許されていない。言い方を変えれば〈理想郷〉とは、他者の到達を許さぬ〈拒絶〉を前提に成立する場所なのだ。香山作品に底流する諦念は、理想とする過去には絶対に所属することができないという決定的な事実から起因し、作品を貫くデカダンスの香気として滞留し続ける。十四歳のときに『前世界史』を読んだ香山滋少年は、生あるものが宿命的なものを悟ったことだろう。「ソロモンの桃」にみられる〈対立〉から〈融和〉という志向は〈理想郷〉から拒まれている自分を救うために編み出した苦肉の策ではないだろうか。香山がどれほど極端な過去志向であろうと過去に戻ることは絶対にできない以上、残された手段は、自分がいまいる時代、場所をどういう形であれ、肯定するしかない。「ソロモンの桃」とは、かつて図鑑少年であった香山滋が、自覚した黄昏(=過去にはもどれぬという諦念)を、時代の肯定という戦後の混乱期を生き抜くうえでの指針によって乗り越えたかを具体化した作品でもあるのだ。
遥かな未来から現代を眺めることで、世界の様相を改革し、自分自身がその空間に参画せんとする天久高広氏のありかたと、遥かな過去を現在と対比し、現在に価値を見出そうとする香山の在りかたは対照的である。だが、二者とも時間の効果を意識、時間、空間を変容させんとする試みにおいては共通している。とりわけ、同時代の試みである、天久高広氏の空前絶後の試みがどのような結実をみせるのか、今後がたのしみである。