越し人、宿命の女として― 芥川龍之介と片山広子をめぐって

 
越し人、宿命の女として
― 芥川龍之介と片山広子をめぐって
                                       
 
二〇一三年八月末、何十年振りかで軽井沢に滞在した。中軽井沢の別荘地帯をわずかな時間、散歩する機会があった。緑深く、日射しも弱いなか、涼しくも湿気がじわりと押し寄せる中軽井沢の光景をみていて思い出したのは、大正末の作家、芥川龍之介と歌人、片山広子との交流であった。芥川と片山とのロマンチックな交遊については、松本寧至氏「越し人慕情発見芥川龍之介」(平成七年一月二〇日、勉誠社刊)、川村湊「物語の娘」(二〇〇五年五月三一日、講談社刊)に詳しい。特に川村湊氏の著作に実証的な事柄はいいつくされている。簡単にまとめるならば、芥川と片山広子の間柄は、淡い恋愛感情にも似た友人関係であり、決定的なことはなかったであろうということだ。軽井沢という土地だからこそ、育み得た恋愛感情であり、東京で片山との逢瀬を重ねても、情熱は燃え上がらず、冷めるだけではなかったかとも川村湊氏は推測する。芥川は「或阿呆の一生」のなかで片山を「越し人」とよび、「才知の上にも格闘出来る女に遭遇した」が「抒情詩を作り、僅かにこの危機を脱出した」と書く。芥川は越し人を「才知の上で格闘出来る」と記しているが、「格闘」という言葉は果たして目上の女性に対する形容としてふさわしいのだろうか。私は不穏なものを感じる。格闘は相手ととっくみあって闘うことの意味だ。ニュアンスとして強いのは、ライバルや強敵といったものだろう。単なる恋愛感情や思慕だけではない。むしろ私には恐怖、怖れが感じられる。芥川は片山広子に対して怖れに近い思慕の情をもった。ではなぜそんな感情をもつにいたったのか。二人の間にどんな思いがめぐったのだろうか。
大正一三年夏、大正一四年夏と都合二回、芥川は軽井沢に滞在している。昭和二年七月に自殺することを考えると、まさに晩年だ。片山広子と芥川がはじめて親しく交わったのは大正一三年七月の軽井沢滞在のときだった。軽井沢滞在時、社会主義の本を読みこんでいたという芥川は、室生犀星や若き堀辰雄、片山母娘と楽しい日々を過ごす。東京帰郷後も片山広子からの誘いがあり、デートを重ねるが、段々会わなくなり、更なる片山の誘いにもかかわらず、芥川は大正一四年三月に「明星」に「越し人」を発表。同年七月にまた軽井沢を訪れ、片山母娘とも交流をもつが前年のときのような高揚感を芥川、片山それぞれもつことはなかった。実質、芥川と片山の感情の高まりは大正一三年七月から大正一四年三月の九ヶ月間のことでしかない。
芥川は大正一三年夏の軽井沢滞在の印象を「二十五才のときに帰った」ようにわかやいだと書簡に記している。軽井沢という土地がもつ独特のハイカラさ、なににも増して片山広子との出会いが鮮烈だったからだろう。片山広子も同様の感情を抱いたからこそ、東京での再会を望む手紙を芥川に認めたにちがいない。辺見じゅん氏によれば、それは、こんな文章だ。
 
芥川と出会い、帰京して間もない大正十三年九月五日付の廣子の手紙がある。
「二十三日にお別れする時に、もう当分、あるひは永久におめにかかる折がないだらうと思ひました。それはたぶん、来年はつるやにおいでがないだらうと思つたからです。それでたいへんにおなごりをしくおもひました。夕方ひどくぼんやりしてさびしく感じました。(略)わたくしたちはおつきあひができないものでせうか。ひどくあきあきした時におめにかかつてつまらないおしやべりができないものでせうか。あなたは今まで女と話をして倦怠を感じなかつたことはないとおつしやいましたが、わたくしが女でなく男かあるひはほかのものに、鳥でもけものでもかまひませんが女でないものに出世しておつきあひはできないものでせうか」
この手紙を境に二人は東京でも会うようになり、丸善で洋書を買ったあと、上野の精養
軒で食事をしたり、銀座で芝居を見たりした。翌年の夏にも再びつるや旅館に半月ほど
滞在している。二人の交際は芥川が昭和二年七月に自死する半年前まで続いていたこと
が、廣子の書簡から推測される。

 少々長い引用になったが、片山と芥川の交流について鮮やかに描いている。これは、後年、片山自身が「過去となつたアイルランド文学」でこう書き残している部分と照応する。
 
  いま私が考へるのは、ジョイスがその沢山の作品をまだ一つも書かず、古詩の訳など試みてゐた時分、シングがまだ一つの戯曲も書かず、アラン群島の一つの島に波をながめて、暮らしてゐた時分、グレゴリイが自分の領内の農民をたづねて古い民謡や英雄の伝説を拾ひあつめてゐた時分、先輩イエーツがやうやく「ウシインのさすらひ」の詩を出版した時分、つまりかれら天才作家たちの夢がほのぼのと熟して来たころの希望時代のことを考へる。世界大戦はまだをはらぬ二十世紀の朝わが国は大正の代の春豊かな時代であつた。世は裕かで、貴族でも労働者でもない中産階級の私たちは、帝劇に梅蘭芳の芝居を見たり、街でコーヒーを飲んだりして、太平の世に桜をかざして生きてゐたのである。

 だが、私が片山の書簡を読み気になるのは、積極的な片山の誘いの文章の裏に息づく性急さ/激しさだ。明らかに書簡で片山は芥川に、ある種の憤りを訴えている。「今まで女と話をして倦怠を感じなかつたことはない」という芥川の発言にカチンときたのだろう。たたみかけるような「わたくしが女でなく男かあるひはほかのものに、鳥でもけものでもかまひませんが女でないものに出世しておつきあひはできないものでせうか」という提案には、片山の怒りすら感じられる。この部分、果し状のようだ。実をいうと私は、片山と芥川の交流にロマンチックなものよりも焦臭いものを感じている。
さて、大正一三年夏時点の芥川は自らを、心ひそかにある作家のそれとなぞらえていたのではないかと私は考える。自身の卒論作家でもあり、ラファエロ前派第二世代にして詩人、小説家、社会主義者であるウィリアムモリスのあり方を芥川は思いついたのではないか。すでに死への誘惑をふりほどくことが難しくなっていた芥川だが、片山広子と出会ったときに、自身の今の状況を打破する、ある可能性が脳裏をよぎったはずだ。それは、一人の女性の存在は全世界に等しい、という論理だ。これは、モリスも肩入れした、ラファエロ前派主義の基調である。この論理が芥川の懐疑主義、自己相対化の体質を変え、憧れ続けたひたむきさ獲得の鍵になるかもしれないと考えたのではないか。さきに軽井沢ならではと書いた。軽井沢という土地は、当時、滞在外国人避暑地として、日本の知識階級、華族などの特権階級の避暑地として機能していた。昔の軽井沢の写真をいくつかみる限り、横文字の看板に溢れ、とても同じ日本とは思われぬ雰囲気だ。また歓楽街が少なく、教会が多かった、この土地はまるで小さな西洋である。芥川や片山、若き堀辰雄にとって軽井沢は、自己のうちなる西洋と呼応するものだった。これに軽井沢独特の霧深い湿潤の自然が重なる。このとき、芥川の脳裏には、モリスたちが生きたイギリスが軽井沢と重なったのではないか。自然相の違いはあるにせよ、モリスが理想としデザインに描いた中世的な理想化されたヨーロッパの雰囲気をどこか感じることはなかったか。自然優位の環境、知的な年上の女性が近くにいるという状況に芥川は、モリスらが理想とした中世騎士ロマンスの世界を思い出したはずだ。だが、帰京後の芥川宛て片山廣子書簡は、一筋縄ではいかないものをはらんでいる。川村湊氏が指摘するように芥川の片山広子への思慕を淡いものにとどめたものとして、それぞれの家族の問題と姦通罪の存在があげられる。当時、芥川は三人の男子の父親、片山広子は男子と女子の母親である。「河童」において、「僕」が河童の国で涙したのは自殺した詩人の河童の残された子供たちをあやすときだった。この部分に芥川の直接的な思いをみることはできよう。片山広子も同じ心境だったろう。姦通罪については不倫が処罰対象であり、北原白秋が晒し者にされて獄中につながれたというエピソードが全てを語っている。細やかさ、神経質さをもった都会人、芥川に耐えられるわけがない。芥川にははなからモリスのような情熱に任せた生き方は不可能なのだ。芥川本人もそのことを熟知していたからこそ、ひたむきさへの憧れとして愚人を形を変えて描き続けた。結果、踏み出せなかった芥川はモリス的な生を生きることなく自殺への道を走り出すことになる。では、片山広子の方はどうか。たしかに、片山の芥川への働きかけは積極的である。だが根本的に片山は恋愛関係を望んでいない。「女でないものに出世しておつきあひ」という性別を超えたつきあい、いわば一個の知性同士の対話を求めていた。敢えていうならば友情に近いものが片山の根底論理となる。逆に片山が友人つきあいを積極的に求めようとすればするほど、芥川はモリス的な理想を優先できない、気弱な自分を自覚することになったはずだ。それは芥川にとって耐えがたい精神的な苦痛だったと推測される。いわば、片山広子の意図的に装われた無邪気さの裏にある激しさを怖れたのではないか。つまり、片山広子とのデートを重ねるほど、一人の作家として、男として、人間としての衰えを認識させられることになったのではないか。表面上は完璧なエスコートをしたとしても芥川の疲れは半端なものではなかったはずだ。他方、一個の知性として受け入れられ、打てば響く作家芥川を独占できる喜びに片山は都度酔ったのだろう。ここに二人のすれ違いははじまる。芥川には、片山が、モリス的なひたむきさをもった、愚人のようにみえていたのではないか。
松本寧至氏は芥川晩年の歴史小説「尼堤」について、身辺雑記風の作品が多い中、先祖返りしたような題材の違和感から直接的な告白をしかねるものがあると考え、繰り返したち現れる菩薩に消えない片山への思いを読み取る。これに対して川村湊氏は芥川を常にとらえて放さぬ死への思いがここにはあると反論する。私自身の見解は、松本寧至氏寄りである。まず芥川の歴史小説の多くが創作契機として実際の生活であった思い出来事から得ている。例えば作家としてたてる歓びを語った「龍」は典型だ。かつて室生犀星が中村真一郎に語ったように語りにくいことは大納言にすればよいというのが全てだろう。つまりきわめて個人的な思いから芥川の歴史小説ははじまっている。そうしたとき「尼堤」の菩薩には片山への芥川の感情が投影されているのは間違いない。ただ私にはそれは思慕ではなく恐怖、怖れと考える。片山とのデートを重ねるほどにその思いは強くなったはずだ。結果、その思慕とも恐怖とも区別がつかなくなった感情に芥川は「越し人」や「尼堤」を書くことでけりをつける。
片山広子は、芥川との逢瀬を重ねるたびに、その内なる「狂熱」を解放していった。松村みね子名義で翻訳された、ベイン「闇の精」、シヨオ「船長ブラスバウンドの改宗」、マクラウド「かなしき女王」に登場する女性たちの多くが、意志的であり、能動的な性質をもつ。この女性像に片山広子の嗜好が反映されているとすれば、片山生来の気質/性格と照応する部分があったはずだ。このとき、片山広子は、理想の思い人ではなく、宿命の女として芥川にたちあらわれることになる。だが、小泉八雲「雪女」で雪女の美しさを認めた若い男だけが生き残るように、一個の才能または美しさにたいしてよびおこされる感情は、〈憧れ〉または〈怖れ〉である。この二つの感情はみえかたの違いだけで根は同じである。ここに芥川の片山への屈折した感情が生まれる。越し人とは、自らの想像の上を「越し」た人の意味があるのだ。秘めたる強気と知性と気品とをもった年上の未亡人とあっては、いかに芥川とて、いささか分が悪い。ここに至り、芥川と片山の関係性は、中世騎士ロマンスから、ウィリアム・モリス「この世のかなたの森」の構造に近似する。「この世のかなたの森」は、こんな話だ。妻の不倫に悩む若い男性が、白昼夢のように表れる一人の女王と美しい侍女、醜い小人の像をみる。長い航海のあと、女王と侍女が暮らす森に男はたどり着く。そこで男は女王にめでられる日々を送る。侍女が女王を殺害し、男と手をとって再び外世界に帰還する。ここで気付くのは、芥川を包む空間の質的変化だ。
つまり、芥川は、当初は、アーサー王伝説のような騎士道ロマンスに、片山と自分との出会いを重ねてみたが、ふたをあけてみれば、モリス「この世のかなたの森」のような状態となっていた。そして、芥川には状況を打破する侍女はいない。たぶん、このような閉塞感が、晩年の「河童」を生み出すことになる。
「河童」は、「社会主義者」「物質主義者」「無神論者」の「僕」の妄想である河童の国の遍歴を語る小説である。仮に作者との直接的な結びつきをおこなうとしたら、そこには、思想(=社会主義)にも、恋愛にも、宗教にも依るところなく、袋小路に陥った或る知性の姿が浮かび上がる。この状況は、女王の手から自分を救い出す侍女が存在しないモリス「この世の果ての森」ではないだろうか。「河童」の作品構造は、開放ではなく、閉塞を描いているという意味で「この世の果ての森」を裏返したものとなっている。川村氏があげている理由以外で考えられる、片山との恋愛に踏み切れなかった大きな理由は、地上的な裁きをこえる論理をモリスと違い、もたなかったということがあげられる。「この世のはての森」で、女王を殺害した侍女に対して男がこう誓う場面がある。

《何もかも話してもらえたのですね。あなたの悪だくみのためであろうと、女王(レイデイ)自身の邪悪な心のせいであろうと、その前の夜、私の腕のなかで寝た女王(レイディ)は昨夜死んだというのですね。それは邪悪なことです。そして私がその邪悪な行為を犯してしまったのです。というのも、私が恋しているのは、あなたであって、女王(レイディ)ではないし、あなたといっしょになれるために、女王(レイディ)の死を願っていたのですから。このことはおわかりでしょう。うぬぼれかも知れませんが、あなたは私を変らず愛して下さる。それでは、私は何を言わなくてはならないのです? 悪だくみを用いたということに、罪があるとするならば、私もまた同じ罪を犯している。そしてもし殺害に、罪があるとするならば、私もさらにまた同じ罪を犯している。ですから、私たち二人は、お互いに神に、そして聖人たちに、こう言いましょう。私たち二人は、そのうちの一人を苦しめ、他の一人を殺そうとした女を謀(はか)って殺しました。もし、私たちが、その行為で過ちを犯したとするなら、私たち二人は進んでその罰を受けましょう。二人は、このことを、一つの肉体、一つの魂として行なったのですから。》

 それは、地上的な裁きよりも優先される論理の存在の有無だ。絶対性でも神でもなんでもよいが、人間が人間を裁くのではなく、より高次のものに判断を委ねるという前提の違いでもある。芥川が自殺直前に「西方の人」「続西方の人」を書き、聖書を手繰りながら死を迎えたのは知られている。が、それでも、キリスト教を信じることができなかったのが芥川龍之介という作家だった。そして、片山廣子と芥川の交流は、若き堀辰雄に決定的な影響をのこす。芥川にとって、モリスをはじめとするラファエロ前派の世界は、見果てぬ夢のようなものだったろう。だが、理想は、現実にならぬからこそ存在し得る。もし、芥川が、王朝ものの世界を素材ではなく、理想としていたらと思わずにはいられない。


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