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もや語

昨日書いた「嫌いな言い回し」と同等に、耳馴染みの悪い言葉についても書くことにした。不平を言いたいのではないし、論じるつもりもない。わたしが日本語の進化(あるいは劣化)についていけないだけである。時代の流れに乗っていないことを自覚しつつ、書いてみる。

この頃、「なんだそれ」と思わず声に出ることがある。
初めて耳にしたり、目にしたりする、短縮された新語や造語が「もやっとする」からである。ファッション雑誌などから生まれた「コーデ」や「プチプラ」などは、わたしにとっての「もや語」の元祖だ。(自分が発した「もや語」という造語がなんだそれ、と思われることについては気にしない)

短縮語はツイッターが普及した頃から拍車がかかったような気がしているのだが、140文字で文章をまとめるためには、色々と端折りたくなる気持ちもわかる。いや、その前に携帯電話のメールが普及した頃から、だろうか。90年代後半の正月に、「あけおめ〜!ことよろ!」というメールを受け取って、脱力した記憶がある。友人が「ねえ、クリパどうする?」と言った時は、わたしの頭には「栗のパフェ」が思い浮かんだ。「卒パ」にも驚いた。ははあ、「コンパ」もこの流れなのか?と思って調べたら「company」の略だった。

雑誌や広告では、編集の問題で、紙面に対して文字数が多すぎる問題を解決するために短縮するのもわかる。でも、だ。好かんのだ。体質なのだ。
数年前になるが、ディズニーのドラマ「アグリーベティ」の中で、ファッション誌のコラムを任され、ベティが嬉々として書いた記事を、誰かが勝手に書き直す、というくだりがあった。英語については不案内だが、字幕では「軽薄な短縮語を使うなんて、わたしはこんな書き方はしない」とベティがつぶやいた。おお、同志よ!とわたしは膝を打った。
短い文章に最大限の情報を詰め込むためには、致し方ないと思うこともある。日本人には長すぎる外国語を短縮することで便利になることもあるだろう。でも、それを「ちょっと気持ち悪い」とずっと思っている。わたしの頭がカタイだけなのか。若者の短縮語についていけないから、ひがんでいるのか。短縮語の必要性はどうにか理解はできるが、馴染まない。

web上のゴシップ記事や、「スカッとする話」のような、一般の人がスレッドを立てて書き込んでいくタイプの記事には、もはや、意味がわからない短縮語ばかりだ。「トメ」「コトメ」は、文脈から見て、どうやら姑と小姑のことらしい。しかし「ナ」や「ド」になってくると、もはや文脈にはヒントすらない。若者は超読解力を持っているから、最小限の短縮語(つまり一文字)で、話が通じるのか。その文化圏にどっぷり浸かっていないと理解できない言語なのであれば、もはや外国語である。

そういえば、昔々ラジオCMで聞いたことがある。東北のある地域では、「ど・さ」「ゆ・さ」で話が通じるという話だ。
「どこへ行くのかい?」「湯(風呂)さ」という会話なのだ。それは地域に根ざした方言で、つまり口を開くのも寒いので、言葉が短くなった。その代わり、それが通じるコミュニティが暖かいのだ、という内容だった。
「け」「く」で会話できる方言も有名だ。「食べな」「食べるよ」が、この形になっている。かなりプリミディブな印象もあるし、逆に超未来的なイメージにもつながっている。このままだと日本語は「ま」とか「ぬ」だけで会話ができるようになるのかもしれない。

ということは、web上での短縮語は、方言でもあり、新言語でもあるということか。もやっとするのは、やはりわたしがそのエリアの住人ではないために理解力が足りないから、なのだな。

しかしわたしは、このもや語の渦に、まだ抗う姿勢だ。
通販の番組では、最近よく使われる「若見え」「年齢肌」も苦手だ。「若く見える」を短縮することによって、よりインパクトを強めているんだろう。「年齢がわかってしまう残念な肌」と言うより、「年齢肌」と言った方がスマートに聞こえるし、お客さんに対して「あなたの肌は汚くないですか」をオブラートに包むことができる。広告におけるメディア側の考査と、いかに効果効能をイメージさせるかのせめぎ合いは、承知している。けれども、気持ち悪い。

「つまり変化についていけない自分がそこにいるだけだ。」と、わたしは自分の頭のかたさを思い知る。一方で、他の文化に凌駕されるのを拒む、誇りを失わない先住民のように、魂の底から胸を張る勇気はないので、時代の流れの中で、しょぼくれたつぶやきを放っているのである。

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