8月9日ナガサキ
母に連れられて、長崎に行ったことが何度かある。貸切バスに揺られて行って、弟と一緒に見知らぬ街を歩いた。原水禁の集会と、デモ行進に参加するためだ。まだ小学校低学年のわたしと幼稚園の弟は、なぜ母がここに来たのか、なぜ連れられて来たのか、意味はわからなかった。ただ、眩しい陽射しと、抜けるような青空に浮かぶ白い雲、子どもたちのための絵本の読み聞かせや楽しい手遊び、それが行われた集会所の玄関にたくさんの子どもの靴やサンダルがあふれんばかりに並んでいたこと。そんな映像を断片的に思い出す。
わたしは北九州工業地帯で生まれ育った。基幹企業として、新日鐵八幡製鉄所がある。小学生高学年の頃「長崎に落とされた原爆は、本当は私たちの街に落とされる計画でした」と先生から聞かされて、あの惨禍が身近なものにならなかったことにホッとした自分が、後ろめたい気持ちになった。自分に起こるはずだった不幸が、見知らぬ人の上に降りかかっている。その人たちが、わたしたちの身代わりになったのだと思ったのだ。
小学校の修学旅行で平和公園に行った。平和祈念像を前に「あ、見たことある」と思った。鳩がたくさん歩いていた。青空を背に、その像も青々としていた。だからわたしは「ナガサキ」と聞くと、青いイメージが浮かぶ。あの清々しいほどの青い場所が、見るも無残な状況だったとは想像がつかない。ただ、晴れ渡った空が不幸を引き寄せたことに胸が苦しくなる。
あの日、小倉が雲に覆われていなかったら、わたしはここにいない。祖父母が生き残っていたとは考えられないからだ。8月9日は、そのことを再認識する日だ。「私たちではなかった」ことにホッとした記憶が、ただここに生きていることで、どうしようもない自分の身勝手さを思い返し、詫びる日でもある。子を持つようになってから、母がどんな思いで原水爆禁止行動の集会に参加していたのか、分かったような気がする。