BOUQUET
インクトーバー2022 6日目 お題は『花束』。
実は正直なところ、生まれてから『花がキレイ』と思えるまで30年くらいかかっている。花や観葉植物には全く興味がなく、誕生日やちょっとしたお祝いにいただく花束を「うれしい」と素直に受け取る気持ちがなかった。
切花は家に花瓶がないし、飾る場所もない。鉢植えは世話をし続ける自信がない。困ったな、と思いながら「ありがとう」と言っていた。
花は手がかかる。仏壇にお供えする花を、祖母は毎朝手入れしていた。花瓶の水を変え、洗い桶に張った水の中で根本を入れてすすぎ、少しだけ切って水上げをしていた。花は面倒くさい、と思っていた。
もう一つの理由は、「お花が大好き」な女の子が好きじゃなかった。当時はぶりっ子という言葉が最盛期で、少女漫画の背景に薔薇が散っているとか、フリルたっぷりの服を着た女の子が抱えるブーケとか、そういうのは「あざとい」と思っていた。直球勝負ではなく、虎の威を借る狐、みたいに花の威を借る娘、という感じで、ずるい、と思っていた。なぜなら自分には花が似合わないから。
今考えると、小娘のわたしはまさに厨二病で、自己評価が低く、他人を僻み、どこか見栄を張っていたのだ。すっかりこじれて、花屋の店先で「キレイ」とか「かわいい」とか言うような大人にはなるまい、とすら思っていた。
大人になってから、花を仔細に見る講座に出た。「なんでもいいから花を持ってくるように」とお題が出て、わたしが選んだものは、その辺の草むらに咲いているようなもので、茎が細くて小さな紫色の花をつけていた。講師は「よーく見て」と言った。その講義は花弁の枚数と重なり具合と葉のつき方の規則性を見る、というものだった。構造を見ると、植物は不思議な完成形だった。なぜこの形でこの色なのか。蕾であろうと開花した状態であろうと、それは必ず「完璧」な形だった。それなのに枯れると見すぼらしく、細胞レベルでバラバラになる。まるで馬車がカボチャに戻ったように魔法が解けた感が強い。不思議だ。そう思った日から、植物が嫌いではなくなった。
今では、お祝い事に花を贈るのも悪くないな、と思うくらいにはなった。ただ、いつも「これをもらった人は迷惑ではないか?大丈夫か?」とは思う。