めでたい
誕生日が来た。めでたい、と言ってくれる人がいる。ありがたき幸せ。
なぜだかわからないが、わたしはずっと、誕生日を祝われたくなかった。誕生日にいい思い出がないのだ。いや、誕生日だけではない。なにか楽しいこと、嬉しいことがあっても、心底喜べないし、楽しめない。ずっと頭の中で声がするのだ。
「おまえは楽しんではいけない。のぼせあがるな。いい気になってるんじゃないぞ」
だから、推し(昔はそんな言い方じゃなかったけど)のライブに行っても、何かのパーティに参加しても、楽しいふりをしながら、いつ水を注されてもすぐに真顔で対処できるように、頭のどこかでは冷めていた。
そう。いつも水を注されていたのだ。楽しい気持ちの時、必ず家族の誰かが泣いたり怒ったり、機嫌が悪くなったりする。スッと真顔で対処しなければならない場面が多かった。そして原因はいつも、わたしにあるのだと思っていた。わたしが悪いから、わたしのせいで、わたしさえしっかりしていれば。
今でもそう思わないこともないが、もういいじゃないか、と自分に言い聞かせる。そろそろ、楽しんでもよかろう。面白かったら笑ってもいいし、嬉しかったら喜んでいい。他人の祝意を素直に受け取って、ありがとう、おかげさまで、と言えばそれでいいのだ。誰もわたしを責めたりしない。
今度、推しのライブに行くことがあったら、踊りまくっていい。なにか嬉しいことがあったら、「聞いて聞いて!こんなことがあったんだよ!」と話していい。
申し訳なさそうな、心苦しそうな、「こんな出来損ないのわたしが生きててすみません」というような、そんな表情で生きなくていい。わたしはわたしを生きていいのだ。なにも恥ずかしくない。(いや、恥ずかしいことはあるかもしれんけど)
『リミッターをはずす』というのは、ハメをはずすという意味ではない。いつの間にか自分で自分にかけ続けた制約を忘れる、ということだ。そんなことを思った1日だった。
わたしは、わたしを生きていく。みなさまどうもありがとう。