人間感覚を失ったあの夏(4)〜 「悟り(涅槃、ニルヴァーナ)」の境地 〜
地球に存在する意味が、よく分からなくなってしまってから。
私の内面は、さらに次の段階へと移り変わっていきました。
どんな状態になったかと言うと。
その時は、
「とうとう人間の感覚を失ってしまった」
と感じていました。
でも後から思い返せば、あれは多分「悟り(ニルヴァーナ)」の境地でした。
悟りの境地に至るまでの変化の過程は、はっきりと思い出せないのですが。
徐々にではなく、ある日から突然悟りの境地になっていた気がします。
この悟りの境地にいた時期は、今までの苦しかった状況とは一変、とにかく静かでとにかく平和でした。
これ以上落ち着いた感覚は存在し得ないと断言できるくらい、究極の平和と静けさを感じていたのです。
経験するまでは、悟りに関する本を読んだりしても、どういう状態のことを言うのか、リアルには全く分からなかった感覚。
例えて言うなら、
「神と一体になった」
そんな感覚なのです。
あの悟りの感覚は、恐らく一生忘れることはなく、これからの人生で再び困難に遭遇した時に、支えになることでしょう。
(※今回は長文になります。)
○ 『悟り』とは
ではまず、『悟り』とはどんな状態を意味するのか、その説明から始めましょう。
インド発祥の宗教(主にヒンドゥー教、仏教、ジャイナ教)の中に、『悟り』という概念は存在しています。
Wikipediaの引用文を最初に紹介すると分かりやすそうなので、まずはそこから。
(私がまさに体験した感覚がそのまま表されていると感じる言葉には、下線を引きました。)
● 『悟り』とは
悟りとは迷いの世界を超え、真理を体得すること。仏教において悟りとは、涅槃※や解脱とも同義とされる。
ジャイナ教では、…(省略)…罪悪や汚れを滅し去って完全んな悟りの智慧を得た人は、「完全者」となり、「生をも望まず、死をも欲せず」と言う境地に至り、さらに「現世をも来世をも願うことなし」という境地に達する。この境地に達すると、生死を超越し、また現世をも来世をも超越する。煩悩を離れて生きることを欲しない、と同時に死を欲しないのは、死を願うこともまた一つの執着と見るからである。
ここに到達した者は、全く愛欲を去り、苦しみを離脱して迫害に遭ったとしても少しも同様することなく、一切の苦痛を耐え忍ぶ。この境地をモークシャ・やすらぎ(寂静)・ニルヴァーナ(涅槃)※とジャイナ教では称する。
(引用:Wikipedia「悟り」)
● ※「涅槃(ねはん)(ニルヴァーナ)」とは
インドの宗教は、ニルヴァーナは完全な静寂、自由、最高の幸福の状態であるだけでなく、誕生、生、死の繰り返しであるサンサーラからの解放と終了であると主張している。
仏教においては、煩悩を滅尽して悟りの智慧(菩提)を完成した境地のこと。
涅槃は生死を超えた悟りの世界であり、仏教の究極的な実践目的とされる。
(引用:Wikipedia「涅槃」)
引用はこんな感じになります。
以前の私がそうであったように、もしかしたら実際経験してみないと、どんな感覚のことを言うのか、言葉も難しいし全然ピンとこないかもしれません。
でも、経験した後でこの文などを読むと、極めて感覚的な世界を、なんて美しく上手な言葉で言語化されているだろうと、感動できるから不思議です。
○ 私の『悟り』
ではここからは。
私の経験から、私の言葉で、悟りや涅槃がどういった状態のことなのかを説明してみます。
分かりやすいように、項目に分けて説明していきます。
① 何も望まない
欲というものが、本当に全く湧いてこなくなりました。
何も望まないのです。
欲しい物が何も浮かばない。
将来に望むものもない。
「なくてもいい」
というよりは、
「今の状態で全てが充分である」
「完了している」。
だから、何も望まないのです。
② 自分が薄れる
自分という個が、とても薄まりました。
私が誰かと問われれば、トーマスりかであるともちろん認識しているのですが。
それ以上に、〝大いなるものの一部″であって、トーマスりかりかという個は、あまり関係ないという感覚が強かったです。
③ 感情がなくなる
わりと情緒豊かな方だと思う私の喜怒哀楽が、本当に嘘のようになくなりました。
廃人のように抜け殻になっているわけではありません。
「満たされている」
「充分である」
感覚をベースに、何が起ころうと微動だにしない平常心が、ただひたすら続くのです。
不安も恐怖も何も湧きません。
とても楽でしたが、でも逆に、楽しい嬉しいというポジティブな感情も、特別起こらなくなりました。
④ 過去や未来への関心が薄れる
過去も未来もほとんど考えなくなります。
全く興味がわきません。
どうでもいいのです。
諦めたり自暴自棄になっているからどうでもいいのではなく。
すでに今充分で、完了しているから、過去や未来に意識を向ける必要がないということと。
あとは「時間」という概念のある3次元的な世界とは違う所に、意識があったからかもしれません。
例え、無理矢理苦い過去の出来事を思い出してみたとしても、少しも苦しくない。
もちろん未来への不安も全くない状態。
これはとても楽なことでした。
これを考えると、私達が、普段いかに今ではない過去や未来へ、エネルギーを浪費しているかに気づきます。
少しもったいないですね。
⑤ 生も死も望まない
生きることへの執着が無くなります。
「ただここに存在している」
それだけの状態なだけ。
生きたいという欲や、野望もなくなります。
極端なようですが、例えば今日か明日、別に死んでも構わないのです。
何故なら、今もうすでに完了しているから。
生きていても死んでいても、自分の存在は何も変わることはないから。
(念のため言っておきますが、死にたい願望があるということでは全くないです。)
⑥ 全ての答えがわかる
世界の成り立ち、社会のこと、人のこと、誰に教えられるわけでもなく、考えることもせずに、あらゆることの答えが分かりました。
例えるなら。チャネリングで、高次存在と繋がって現実世界や人間の頭では得られにくい答えを得ることをしますが、自分自身がその高次存在と意識が常に一体化している感じです。
自分の中から出てくる答えはどれも正解でありながら、かなり達観した答えばかりでした。
そして、人間社会から、とても離れた所に存在している感覚でいました。
⑦ 人や社会と離れているのに孤独ではない
この頃、人間社会の中で見るほとんど全てのことが、よく理解できませんでした。
それを説明するのに分かりやすいのは、ネガティブなものを目にした時です。
(正直に言うのもちょっと気が引けますが…。)
様々な、社会問題、ニュース、人の悩みや愚痴など。
例え100人中100人が、同情したり悲惨だと思うことを見聞きしたとしても、
その時の私は、おかしいくらい何も感じないのです。
常に
「全てのことに意味がある」
といった姿勢で、何を見聞きしても、それはそれで世界は完全なのだと感じます。
例えば青空に、色んな形の雲が色んな速さで流れているのを見ても、特別一喜一憂しないのと同じで、ただ淡々と世界を眺めているのです。
また、ネガティブなものだけでなく、ポジティブなものを目にした時も同様で。
何が面白くて人が笑っているのか、何でそれが人に好かれて流行っているのか、そんな感覚までよく分からない。
全然リアルに想像できない。
そんなことから、自然と人と関わらなくなりました。
自分の意識は俗世間と全然別の所に来てしまっている自覚と。
人と繋がりたいという欲求自体がそもそもわかないこと。
そして実際人に会ったとしても、無理して話を合わせたりリアクションするため、労力を要します。
友人には、いつもと違う私の様子に戸惑わせてしまうかもしれない。
そんな思いもありました。
でも不思議なことに、孤独や疎外感などは微塵も感じず、内的にはただひたすら平和なのでした。
* * * * * * * * * *
私の経験した『悟り』を私の言葉で表すと、こんな感じでした。
この悟りの境地でいる期間は、本当に楽でした。
悩みや不安が何もない。
欲に振り回されることもない。
究極的に平和で静かな時間が続きます。
○ 悟りの状態でいることによる問題
この究極的に平和で静かな感覚が、24時間100%占めていたのかというと、そうではなく。
日中など1人で過ごしている時には90〜100%この感覚でしたが。
(夏は2ヶ月間程夫が泊まりの仕事に出ていたので、1人で過ごす時間が多かったです。)
でも子供達が保育園から帰ると、育児のために普通の感覚を取り戻そうと努力して、大体70〜80%くらいになっていたと思います。
悟りの感覚が70〜80%になっている間は、今の自分を客観的に見て、
「もしこの状態がずっと続いたら…。」
と少し不安になることが、いくつかありました。
それはこんなことです。
(1)子供を情緒豊かに育てられないかもしれない
感情も、欲も悩みも殆どなくなるので、例えば遊びながら喜びや感動を共有するというような、当たり前のことが難しくなりました。
努力しないとできないし、できてもどこか表面的な気がして違和感がありました。
この違和感は、子ども側も感じているんじゃないか。
こんな関わり方を続けて、子どもの情緒がちゃんと豊かに育つだろうかと。
これは、この時期一番気になっていたことでした。
(2)スピリチュアルセラピストの仕事に戻れない
全ての答えはわかるけど、その世界観、考え方の規模が大きすぎて、普通の人向きではないと感じていました。
答えを伝えた所で、例え正解でも心には響かないだろうと。
それに、感情も悩みも、それ自体がどんな感覚なのか、リアルには分からなくなってしまっていたので、心から共感し、受け止めることもできません。
そうするとどう考えても、今までやってきた形での、スピリチュアルセラピストの仕事は成り立ちません。
対話による気づきや癒しはせず、単に高次存在からの“お告げ”というスタイルのセッションに、形を変えなければならないかなと本気で考えたりしていました。
(3)人間として存在している意味があまりわからない
感情という、人間ならではの生きる喜びや彩りを感じられなくなったこと。
また自分が人間社会から遠い所にいるような感覚。
そしてこの悟りの境地になる前の経験で、地球にいる意味がわからなくなったことも思い出し。
今の状態で、
「人間として存在している意味がどれだけあるだろうか。」
という素朴な疑問も常に持っていました。
* * * * * * * * * *
もしも私に子供がいなければ、このまま悟りの境地に居続けようと思ったでしょう。
そのくらい、とにかく平和で静かで、楽なのです。
俗世間と自分の感覚があまりに離れすぎて、尼さんにでもなった方がいいのかなと真面目に考えることもありました。
でも、
「それだと目の前にいるこの子供達を守れない!」
という所で目が覚めます。
「人間に戻っておいで。」
子供達にそう導かれているような気もして。
あぁきっとこの状態は、永遠には続かないのかもしれないと、薄々考えてもいたのでした。
こんな悟りの状態が1〜2週間続いた後。
最後、もう一つだけある大変な出来事が起こります。
長かった私の非日常生活は、その最後の出来事を経験してから、ようやく幕が閉じられるのです。
(つづく)