偏愛は次世代のライフスタイル?偏愛持ってる人って実は何にも偏ってない説について。
こんばんは、リカです。
次世代のライフスタイルとして偏愛を提唱し、面白い未来を創造していく偏愛をお持ちの方々にフォーカスしたwebマガジン「偏愛、万歳。」もあともう少しで公開のところまで来ました。
このタイミングだからか、偏愛を持っている人って、どういう考えの人かなぁと考え始めました。
一言に偏愛と言うと、まあ偏った愛ですから、偏った思考を持った変な人!みたいに思いますけれど。
このwebマガジンを創るにあたって、様々な偏愛をお持ちの方にお話を伺ってきましたが、どうも皆さまとても品がよく、人間力の塊みたいな方々ばかりなんですよね。
それでいて彼らは、「自分はどう思うのか?」という軸をきちんと持っている。
その上で、自分が面白いと思ったものをとことん追求している。
はっと気がついたのは、彼らの行動原理や思考の過程には、社会等自分以外の所からの「どうあるべき」という規範が干渉していない。
かといって、そういった規範を無下にするわけではなく、「あなた(達)はそう考えている、それはそれでいい。でも私はこう思う、そして自分は自分のものなので、自分の考えに従う。」といった感じなんですよね。
「どうあるべき」「どうするべき」という、他者へ強要するような偏った考えはなく、あくまで「自分はこう思うから」という軸で考えているんです。
そう考えてみると、実は彼らは何にも偏っていないのでは?と。
よっぽど、社会規範的な「これはこうであるべきなんだー!!なぜ従わぬのだ!!」みたいな方が偏ってるなぁと。
それに対して彼らは、他人の意見を尊重しつつ、あくまで自分の思いに従って動いていて、それを強要することはない。
これが、彼らの品の良さの要因かもしれません。
偏愛こそ、次世代のライフスタイルなのではないか。
最近って本当に、心の拠り所を見つけるのが難しいと思うんです。
小さい単位の話からすると、まずは家族構成。
核家族が進行したのはもう前の話、いまではその家族から子供が独り立ちして、単身世帯が増えている。
私自身一人暮らしですが、そうなってくると「家族」という拠り所が家からなくなってしまう。まー孤独です、特に慣れないうちは。
そして次に少し大きめの話をすれば、勤めている企業も拠り所にはならない。
どんなに大きくてもいつ倒産するかわからないし、生涯面倒を見てくれるわけでもない。
ここも拠り所にならない。
さらに昨今のコロナウイルスと来た。
ウイルス拡大防止のために外出を控え、各種イベントがキャンセルとなるだけで経済が大混乱。
社会システムのどこを見ても、「大丈夫だ」と安心できないというか。
やっぱり人間っていうのは、心のどこかで何かに酔っていないと心が安定しないと思うんですけれど、そのためのセーフティネットが揺らいでしまっている気がします。
で、社会規範とかっていうのはセーフティネットとしての社会システムが整っていてこそ機能するルールですけれど、まあ基盤が揺らいでしまえば社会規範なんて安心できる要素ではないわけで。
そうなってくるとです。
拠って立てる所って結局は自分だけだねってなってきて。
そうなってくると、偏愛を持つ方々の「自分は自分だけのもの。だから、自分が思った事を信じる。」という思考というのは画期的なんじゃないかなぁと。
実際私自身はこういう思考で日々暮らすようにしてみているんですが、もの凄く日々充実するようになりました。
自分自身に拠って立つとなるとその分責任は取らなければいけなくなりますが、その分自由があります。
まーそんな風に生きてると社会規範からは外れてしまうんで、「宇宙人」って呼ばれたりしますけど、よく「リカと一緒にいると心が軽くなる」とか「人生楽しそうでいいなぁと思う」とかというフィードバックばかりもらうんで間違っちゃいないのかなと思ってます。
不安定な時代だからこそ、自分の考えや思いに忠実に従ってみる。
すうすると、ふっと気持ちが軽くなるんじゃないでしょうか。
私自身そうやってみて良かったと思っているので、これを読んでくださっているあなたにも、偏愛的思考をお試し頂きたいなと思っております。
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