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Tinder

Tinderというスマホ向けアプリをご存知だろうか?

日本で使われているのかは分からないが、おそらく日本人の性格にはあまり向かないアプリではないかと思う。

どう言うものかというと、まず登録するとFacebookの自分のアカウントと連動させられ、
あれよあれよという間に、自分が「求めて」いる「条件」にマッチした人たちが、次から次へとその画像ととともに流れて来て、気に入らなければ「次へ」スワイプ、気に入ればメッセージを送る、というものだ。

いわゆる出会い系アプリなのだけど、自分のいるところの近くの人と出会えるということと、Facebookと連動しているのでその相手の人ととなりがある程度知れるというのが特徴らしい。

スペイン語の授業でそのアプリの読み物を読んで、興味本位で登録してみのだけど、すぐに怖くなってしまって消してしまった。

次々に現れるメキシコ人、それをスワイプし続ける動作に、とてつもない嫌悪感を覚えた。

まるで洋服を選ぶときのようだった。

日本人ならプライバシーを守りたがるから、こんなシステムは好まないだろう。
自分がどこに住んでいる(住所ではなく街だけ)かや、自分のFacebookのアカウントなど、知らない人には知られたくないものだ。

でもこちらの人たちは、Facebookにそんなプライバシー性を持っていないし、プロフィール写真もでかでかと自撮りの顔丸出し写真だったりする。

そして画面をスワイプし続けて、“友達”を探し続けている。

求める人の年齢や性別を選ぶことができるから、もちろん同性の友達を見つけることもできる。
しかし大半の人は、恋人や一夜限りの相手を探しているのだと思う。

わたしが怖くなったのは、こんなにも簡単に
家で寝転がりながら「人間」を探すことができるということ、そしてそれに慣れていくこと、
それから写真やその人の年齢だけ見て「はじく」という行為に対してだった。

こんなに簡単に人を探し、出会えるというアプリが作られたということは、紛れもなくそれを求めている人がたくさんいるからだということだろう。需要があるのだ。
そんなにわたしたちは出会いに飢えているのか、
こんなにも寂しい人間なのか、と実感してしまったのである。

そしてわたしはものの3分ほどでそのアプリを閉じてデータも消してしまった。

わたしの心の中に、なんとも言えない感情がシコリのように残った。

人と出会うことがいいとか悪いとかそういうことではない。
手軽に出会えるということは、手軽に消せるということなのだ。
嫌なところを見たらその人を消去したり、ブロックすればいい。

出会わなかったことにすらすることができる。

もはや人間関係は「物」と同じ。
都合のいいときだけ、都合のいい人と出会うようになってきているような気がする。

別に苦手な人や苦手な空間に居なければいけないと言っているのではなくて、

都合のいいときだけの関係は、いつまで経ってもある線を越えることができず、
人間関係のある線とは「信頼」であり、それを体験しない限りは永遠にその人と距離が縮まることができず、そのすべを知らないなら永遠に誰とも本当の意味で関係を築けないのではないか。

つまり今は、「出会う」ことは容易で、その分関係を「築く」ことが苦手になってきているように思う。

出会いのきっかけが必要な人もいる。
ただそこで気をつけたいのは、自分は何を求めてこのアプリを使っているのか、自分の中で明確にすることでないか。

それでなければ、出会った人ではなくて、
出会う行為そのものにハマってしまう可能性があるからだ。

そしてそのスワイプを繰り返し続ける間は、永遠に誰とも真の関係を持つことはできないのである。


#生活 #コラム #恋愛 #出会いアプリ