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「座り込みを考える」を見て

ひろゆき氏の行動で、改めて辺野古基地について考えることができたので、それはそれでよかったなと思う部分。

辺野古基地は、“移設”であることに留意すべきだと思う。
普天間基地返還の代わりに、辺野古に移設すると合意したはずである。

辺野古基地建設に反対している人は、沖縄の基地問題の前に、自分の土地に基地が来て、きれいな海が汚れることに対して反対運動始めたことが、きっかけではないのだろうか。
もちろんその中には沖縄の米軍基地そのものに反対している方もいることを踏まえて。

20代のころ、本当に沖縄が好きで移住まで考えるほどだった。今でも大好きな場所のひとつ。沖縄の海が汚れると聞けば、誰でも無意識に反対の意を持つだろう。基地じゃなくったって、ホテルだってなんだって、環境汚染と聞けばそこは同じじゃないだろうか。
大好きな歌手Coccoが辺野古の反対運動に参加していた。彼女の主張は、ジュゴンのいる海を汚さないでだった。それで私はこの問題を知った。

移設反対と、基地反対では主張が違うので、違う論点で話をするからかみ合わないのではないか。
沖縄の悲惨な、筆舌しがたい凄惨な戦争を思えば、基地に対して感情的になるのは当たり前のことだとも思う。あんな戦争は二度と起こるべきではない、沖縄の人の心には、その傷は当然ながら、戦後のアメリカ統治時代の辛苦もまだ鮮明に残っている中での、米軍の起こす数多の犯罪、事件。その苦しみを無関係な人間が勝手に推し量ることはできない。
でも、思うことはできる。想像して考えることはできる。
感情的になれば、排他的になる。喧嘩のときにだって、「あんたには私の気持ちなんてわかんないよ!」という。それと同じ心情だ。
理論で言われたって腹が立つ。何年もやってきたことを「否定された」と思うのは人間の性かもしれない。それがあの、「座り込み」していた方々の態度に現れているのではないか。そこにいくら「正論」で諭しても、果たしてそれ自体に意味があるのか。
感情と正論で話すから、すれ違うどころかかみ合わない不毛な議論になってしまう。
ひろゆき氏の「正論」は、正論だけど、だから、ひどく冷たく聞こえる。
合理主義には決して理解できない、感情の部分を突かれると、人は敏感になってしまうものだ。それがいいとか悪いの話ではなく。
この動画では、何が正しいかで議論をし始めるから、なんだか双方とても虚しく見えてしまう。
本当に、何が「正しいか」の議論って、意味があるのだろうか。
移転の問題、感情論と正論の問題、この2点で動画内の論点がかみ合わなくなって、ややこしくなっている。

沖縄の人の心に寄り添うという言葉は私もわかる。でも主語が大きすぎるのも事実で、
沖縄の中にも、様々な意見、感情があるはずだ。
親や家族が沖縄戦で惨い死に方をして、戦後の沖縄を見てきた人たちと、私の友達のように生まれたときから日本に返還されていて、基地と生きてきた人たちでは見てきた沖縄が少し違うのかもしれない。私の友達は、10年前に聞いた時(20代後半だった)、「でも基地がないと中国に侵略されるからね~」と言っていた。今まで、沖縄の友達に直接基地問題を聞いたことがなかったけど、反対派が当たり前だと持っていたから正直少し驚いた。いや、彼だって「基地はいらないと思っているけど」という枕詞がそのコメントの前についていたのかもしれない。
それは果たして反対派なのか、賛成派なのか。
おそらく多くの沖縄の人が彼のように、はっきりと反対、賛成の意を明らかにし、行動を取っているわけではないと思う。
基地の恩恵を受けている、基地内に従事する人、地主などもいる。
つまり「沖縄の人」とひとくくりにすることも、安直な考えなのではないか。

ここでは、日本の米軍基地の問題には触れない。
私がここで話したかったのは、彼らの議論で感じたこと。

「沖縄を思う」というとき、なんだかとても自分が偽物のような気がしてならない。思うってなんだよ、見てないくせに。好きってだけだろ、きれいな海や穏やかな雰囲気が。って、自分で自分に言いたくなる。
沖縄には、深い闇がある。日本の負を背負ってきた澱んだかたまりが根底になる。琉球時代の日本からの侵略から続く、深い長い傷だ。
だから時にはひろゆき氏ののように、徹底的に客観的に、理論的に合理的に考えることも、ある意味沖縄を思うことなのかなと思うのだ。
沖縄を変えるのに必要なのは、悲しい歴史の上にある同情ではなくて、客観的かつ具体的な政策なのではないかと。