人生物語4.別れた母と4年振りの再会!
両親が離婚をして早くも4年が経つ中学2年生の頃、家庭のことは大変なことだらけで中々学業と主婦業の両立が出来なくなり、クラブ活動も辞めたり、朝は家族は仕事で居てないのでストレスも溜まってたからか朝が起きれず、学校にもろくに行けなくて昼から行ったりしてました。この時はほぼ勉強に取り組めなかったので漢字も、国語、数学、理科、社会、歴史なにもかもよくわからないままでいました。
洗濯物を干してる時に、ふと夜空を眺めながら「くそ〜!このままでは終わるか!絶対良くなったんねん」とハングリー精神はかなり養われましたね😅この時、下を向かずに上を見てて良かったなと思います。
好きなテレビも見れないし、遊びにも行くこともなく自由に過ごすこともありません。家に帰ったら即私服に着替えて買い物に行きます。おませな子だったのもあり、唯一の楽しみを作ってはオシャレはしてたかなと思います。
しかし、主婦業も4年ほど経つと知恵が生まれて、スーパーでは2ヶ所のお店でお買い得な商品を物色しながら、値切り交渉も上手くなったりして完全に主婦目線。お店の人も同情なのかわかりませんが、ありがたいことによくおまけしてくれてました(特権かな笑)
私自身、意外と食べ物の好き嫌いがなかったので何でも作ってました。多分作る側になることで好き嫌いを言ってられなくなったのかと思いますが、そうだとしたら私にとってはお得なことで今思えば良かったです。
小学生時代に家庭科の先生が片親の生徒達のために特別料理教室を開いて頂いていたのでその時に教えてもらった料理もよく作っていました。教えてもらった料理は、覚えているのがこの2品!手作りマーボー豆腐、小麦粉から作る手作りうどん、教えてもらった料理ではないけど我流で作っていた得意料理は豚汁と焼うどんです。これは結構評判が良かったように思います。兄たちは私のご飯がお袋の味みたいになったものもあったみたいです。
それでも、日々悶々としながら生きた心地もしない毎日を過ごしてました。
そんなある日、母からよく靴下や下着を買っては手紙を添えてポストに入れてくれていました。まだ、怒りが収まらない私は贈り物を受け取っても何も返答もしないままでした。
少し気になった頃友達に「おかん(お母さんと呼べなかった😓)から手紙と下着とか送ってくんねんけど…」と言ったら、「そりゃあ会いたいからに決まってるやろ、会ってあげたら」と。私はあまり乗り気ではなかったけど会っても良いかなっと思ったので会いに行きました。(結構傲慢)
家の近所にあるファミレスで待合せました。当時、両親が離婚した時の私は10歳で身長が150㎝なかったくらいで、母も同じくらいの背丈でした。そこから私は4年で10㎝ほど伸びて160㎝近くまで背が伸びていたので、再会時に母を見た印象は「小っさいな〜」でした。まぁまぁな衝撃で「こんな小さかったっけ?」と思うくらい時間が止まった気がしました。
席について間もなく、母はとても心配しながら何度も何度も「ごめんな〜」って謝っては涙を流しながら気遣ってくれてました。それでも私は反発してました。「こうなったのもあんたのせいや😠」と今思えば自分勝手なこと言っていたなと思ってしまうし、母に申し訳ない事したなと改めて振り返りました。
どのくらい話したのかは覚えてないけど、これを機会に年に一回は会いに来るようになりました。母は生命保険の仕事をしていたので私の名前で保険に入るための署名と捺印してと言っては口実を作って会いに来たり、会社からチケットが手に入るからと劇団四季のキャッツを見に行ったりしていました。このミュージカルは衝撃的で多感な年頃だった私は凄く感動し刺激を受けたのを覚えています。
また、PLの花火大会も行ったりしました。当時母はPL教の信者だったので離婚前からも家族で行っていたのですが、そこからも数年は連れて行ってくれてました。席は敷地内にある広場で見るので信者ともあってあれはきっと特等席だったと思います。打ち上げられた花火は大輪に広がるように壮大に見えて首が痛くなってしまうほどでした。花火の破片が飛んでくるくらいの近さで見れてこれもとても感動し印象的な思い出です。
母なりに、親として接してくれていましたが、それでも反抗的なのは変わらない私、いつも機嫌が悪い対応をしてはそれでも笑顔で受け入れてくれていたな〜と今になって思い出します。当時は、思春期で中二病の真っ只中だったし、いきなりの家庭不和で父からの虐待に合うことも受け入れられなかっただろうし理不尽だと思って納得のいかない状態でしたからとても怒っていました。この頃から怒りを持つようになって表情も態度もエネルギーもすべて怒りを放出していたと思います。
家では、父に何されるか何言われるかわからないから母に会っていることは内緒にしていました。内心ではビクついてましてけど、父にバレることはありませんでした。しかし、当時の両親は連絡を取り合っていた事を最近になって知ったのでもしかしたら私の知らない間に、父には全て知っていて、知らないふりをしていたのかもしれません。
続く