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店先のサボテン
私は植物を育てるのが得意ではない。
むしろ苦手な方かもしれない。
小学生のころ校庭の花壇に植えたマリーゴールド。
その日の日直の子が登校して水をあげる。
これがクラスのルール。
私の番が来るのなんて月に2.3回ほど。
普段はそこにあるのが当たり前で
そんなに見向きもしないのに
月に訪れる水やりは使命感にも似た気持ちで
たっぷりあげていたという思い出と
同じ場所にいて同じタイミングで
綺麗に咲かないことへの
もどかしさもあった気がする。
綺麗に咲いている花の横には小ぶりの蕾。
その蕾が咲く頃には、
先に咲いた大きな花はくたっとする。
何故か蕾の開花に歓喜するよりも
くたっとした花への申し訳なさというか、
不甲斐なさというか、がっかり感というか…
小学生ながらにモヤモヤとした何かを感じていた。
人生において花束を贈られることは度々訪れる。
入学、卒業、誕生日、結婚式…
その都度私はしょんぼりさせてしまった花を見て
なんとも言えない気持ちになる。
部屋の彩りとしてはもちろんだが
生命を感じるものが部屋にあるほうがいいと聞き、
花瓶を買って生けたこともあった。
そして私はあの頃と同じ申し訳なさと
自分への不甲斐なさと…
マイナスな感情の方が大きくなる。
転職が決まりお世話になった職場を離れるときに
いただいた送別の花束を機に飾ることをやめた。
それからしばらくしたある日、
新しい職場の近くにオープンしたてのお店があった。
入り口に1つの鉢。
そこには背丈の違う3本のサボテンが並んでいた。
サボテンなら育てやすいよ。
そんな会話を過去に何度もした気がする。
だけど私には無理だとわかっている。
だからこの店先のサボテンを
見守ると密かに心に決めた春。
サボテンを目にするのは週1回ほど。
普段は室内にあるのだろう。
たまに出会う日向ぼっこのサボテン。
サボテンの寿命がどのくらいかは知らないけれど
私が見かけるようになって6年。
1番大きな子だけがひと回り大きくなって
変わらない鉢の中で育っていた。
小さな鉢の中では栄養を分け合う事は難しかったのか。
ともに大きくなる事は難しかったのか。
私が育てたわけではないが
6年も見守り続けた身としては
3本仲良く大きくなって
鉢替えをしていく未来を想像していたから
どうしても寂しくなった。
それと同時に既視感があった。
1つの鉢に植えられた植物たちが
私たちの生活に似ているような感覚。
学校や職場が鉢で。
同じ環境、ルールのもとで生活することは
時として誰かが目立つこともあるだろうし、
なかなか馴染めないこともある。
得意なことや苦手なことも違う。
全ての人が同じスピードで進む事はなく
それが個性だということは
わかってる。理解している。
だけど私が怖いのは、
悲しいのは、
目立つ一部分の人だけが得をすること。
遅れる人、先を走った人の努力が
無かったことになったり踏み台にされること。
きっと私は昔からそちら側の人なのだろう。
その恐れや切なさが
枯れてしまったマリーゴールドや
消えた2本のサボテンへの
感情移入に繋がったのかもしれない。
根腐れしないうちに
生きやすい別の鉢へ
植え替えされていることを願うことしか
私にはできない。
それぞれにとって住みやすい環境と
温かい世界になることも同時に願いたい。