青年団リンク キュイ『まだなにもはなしていないのに』音響上演の感想メモ
2021年3月28日朝に青年団リンク キュイ『まだなにもはなしていないのに』音響上演を観ました。会場はアトリエ春風舎。
音響上演とはなんぞや?予約をしたときには想像もつかなかった。
土曜日の朝10時の回、20分前の開場。検温、手指の消毒後受付を済ませると、簡単な場内の説明を受ける。回遊型の演劇であること。中央部分というかてんじ部分には立ち入ったり手を触れたりしないことや、休憩用のベンチが用意されていること。入って奥側の階段には途中でカーテンでの仕切りがされていてそこまでしか上がってはいけないこと、などなど。
小さなLEDライトを渡される。場内に入ると歩くのになんとか不自由しない程度に薄暗い空間。手のひらに充分収まるLEDライトが照らす範囲は狭いけれど光量は足元を照らすことはもちろん空間を貫くにも十分だ。
目が慣れて空間の中央がそのまま作家の部屋に設えられていることがわかる。2K程度のスペースだろうか、ベットや卓袱台のようなもの、本棚や生活用品を入れる棚、台所のスペース、作家の部屋のものをそのまま持ち込んだとのことだが、物理的な什器だけではなく生活の質感もいっしょに連れてこられた感じ。その中でまず誘われたのはベットのノート、びっちりと手書きの文字が詰め込まれている。読む。それは、物語の一部にも、心風景の吐露にも、行き場のない文章にも思える。開演時間前の探索、薄暗い中、場内を一巡りし、文字がノートのうえだけではく、様々なところに入り込み書き連ねられていることに気付く。目に入るものは自然に読む。
天井に吊された蛍光灯に順番に灯りがともり、部屋が明るくなる。ゆっくりと目覚めたような気持ち。少し癖のある文字が半端なく部屋中のあちらこちらに散らばっていることに驚く。空間に設えられたものたちが醸す生活感に捉えられつつ、ちょっぴりのぞき見をしているような罪悪感もありつつ、宝探しをするように文字を見つけ出しては照らして読む。そこには長めの文章として書き連ねられている記憶や思索と思われるものもあれば、それこそ電気器具から櫛からルービックキューブに至るまで様々なものへの刹那の印象や訪れる発想として刻まれているものもある。その一重でないところが一瞬ごとに心を占めるもののありようにも感じられる、
朗読が流れ始める。初めは内容というよりトーンのようなものを深い意識もなく受け取っていたのだけれど、受け取りながら宝探しを続けていたのだけれど、そのうちに耳に入ってくる言葉の連なりに既視感が混ざり込み、それが部屋のあちこちに書き付けられていたものであることに思い当たる。すると、その重なりに部屋に舫いを解かれた様々な思いや思考が今を与えられ、呼吸を取り戻し、揺蕩い、様々な部分に付着して文字となり、無臭ではあっても部屋気配となり匂いともなり、ふたたび至る所にこびりついていく風景が浮かび、その営みの想像に部屋中がというか空間全体が恐ろしく生々しく感じられる。そこには誰もいないのに,日々を過ごしていたであろう人物の時に沈み時に放たれる禍々しく瑞々しい想いに圧倒される。
終演時近く、奥の階段の許された範囲での最上段からその空間を俯瞰する。3つの蛍光灯が順番に消えて、世界が最初の態に戻る。でも、その後ふたたびフラットな高さに戻り眺めるその場はもはや怖々足を踏み入れた最初の世界ではなかった。肌触りを持った時間の記憶が確かな質量を伴いどうにも霧散することなく心に残る。会場を出てやっとなにかから解放された気持ちになった。終わってみれば激しさをもたない強烈な表現だった。
秀逸なインスタレーションなのだと思う。また、様々に演劇的でもある。舞台装置の極みかもしれない。そうやって一巡り考えて、ここまでがっつりと仕組まれた表現にそんなカテゴライズなど意味がないことだと思い直した。
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青年団リンク キュイ
『まだなにもはなしていないのに』音響上演
2021年3月25日[木] - 3月28日[日]@アトリエ春風舎
作・演出
綾門優季
声の出演
和田華子(青年団)
森谷ふみ(ニッポンの河川)