見出し画像

ひなた旅行舎『蝶のやうな私の郷愁』の感想メモ

2021年5月28日夜に観劇したひなた旅行舎『蝶のやうな私の郷愁』の感想メモ。会場はこまばアゴラ劇場。

この文章にはネタバレがあります。現在まだ公演期間中ですので、これからごらんになる方は、観劇後にお読み頂ければと思います。

それは、ゆっくりと舞台に現れ、時間の箍のあいまいさを持ちながら、舞台に紡がれていく。夕方のひととき、帰宅する夫、夕餉を用意する妻。会話のひとつずつにどこか恣意的な形骸化があって、でもそれが日々のあやふやさの中に確かに存在するルーティンにも思え、やがて様々なことが入り込む間口を持った記憶のありようにも感じられる。
ままごとのような食卓、ごはんやおかずのこと、食器や食べ物は小さく、そこにあるものは見立てというか木でできたものに定義を与えて置かれる。で、そのことが、リアルな道具と会話で細微に紡いだ時間ではそのリアリティの平板さに埋もれてしまうような可笑しさや切なさやいとおしさに、温度を授け、血を通わせ、際立ちを与える。やがて浮かぶ婚前にできた子供のこと、姉の死、ふたりが抱えるもの、駅前に建つマンションのこと、彼らに訪れた非日常もその解像度の中であるがごとくに取り込まれ、金魚の餌のくだりなどとびきりコミカルで、会話のさりげないウィットに心を惹かれ、惹かれた先に慰安や不安や切なさとなり、現れては沈み、揺蕩い、歩みだし、溢れて滅失し、その日々のどこかセピアがかった風景の呼吸に、気がつけば心が根っこから共振している。俳優達のひとつずつの刹那の色合いや重さのバランスが丸まらずにとても丁寧に作り込まれていて、内包されている彼らの様々な心の断片も交わりもばらけず、まとまりすぎず、喜怒哀楽を湛えながらその日々のありようとなり観る側を芯を浸していく。

そうして受け取った感覚に導かれ、舞台に閉じ込められたその先で、とても自然に何年か前にこの戯曲を別の団体で観たことも思い出していた。「えうれか」の旗揚げ公演だったように思う。舞台の語り口も俳優の演じ方も違っていたけれど、描かれる人物たちの形にできない記憶が像を結びつつ滅失していくような感じには既視感があって、ふたりが生きた時間の鉛のような質量を持った軽質さが終演後もずっと残ることも同じで記憶が解けた。それらは、観客に渡すように演出と俳優たちに仕掛けられた戯曲の企みのようにも思う。

少し調べてみたら、この戯曲は元々1989年の初演だそうで、1999年に大改訂されたとのこと。バブルが訪れ、あるいはバブルがはじけた先で彼らの日々は流され、形を変え、その日々が郷愁という形で記憶を反芻するなかに蘇るありようには今であっても全く陳腐さはなく、作り手に挑み、演じ手を研ぎ、観る側を繋ぎ続けている。
記憶はカーベンターズの歌とともに歌詞の如くにあらわれて、洪水の予感の中に消えていく。うろ覚えだが夫の台詞にそのまちは全て流れてしまい、唯一残った駅前のマンションに住んでいるかもみたいなのがあったけれど、夫婦は今も共にあるのだろうか。あるいは生き別れ、死に別れて、それぞれの中に描かれた日々の記憶が揺蕩っているのだろうか。帰り道、そんなことも考える。思い返してさまざまな感傷がしっかりと蘇る。そのための表現の創意や仕掛けや演技の熟達に満ちた秀逸な舞台だった。

ろうそくphoto-3UP

劇場ロビーには演出助手の矢田未来さんと俳優の多田香織さんがこの作品をモチーフにして描いた絵が展示即売されていて、開演前と終演後に密を避けつつ観て、どうにも心に引っかかりその中の1枚を購入。部屋に飾ると素敵に映える。眺めていて、終演後に抱いた言葉になし得ない感覚へと再び訪れるための鍵を受け取ったような気がした。

=== === === ===
ひなた旅行舎 『蝶のやうな私の郷愁』
2021年5月26日~5月30日@こまばアゴラ劇場
作 :松田正隆 
演出:永山智行(劇団こふく劇場)
出演:多田香織(KAKUTA) 
   日髙啓介(FUKAIPRODUCE羽衣)


いいなと思ったら応援しよう!