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江古田のガールズ『12人の怒れる女』の感想メモ

2021年4月2日夜に観た江古田のガールス12周年記念公演、『12人の怒れる女』の感想。

「十二人の怒れる男」の戯曲は舞台や映画でこれまでに何回か観ている。陪審員室に閉じ込められた男たちの会話劇、観る側もその熱に巻き込まれて、気が付けばその顛末を食い入るように見つめた。
またその設定や筋立てを足場にしたアレンジ版の作品、三谷幸喜作『12人の優しい日本人』やそこからさらに踏み出したG2作『12人のおかしな大阪人』なども観ている。いずれもベーシックな構成の妙などはそのままに、密室劇的な要素を持ちつつ、日本人であったり大阪人であったりの特性をフィーチャーしたという舞台、これらはこれらで名作だった。
今回の江古田のガールズ公演では男版と女版が作られていて、残念ながら男版をみることはできなかったが、少なくとも女版では基本的な筋立てなどは概ねオリジナルどおりに上演されていたように思う。その善し悪しは別にして、飲み物の範疇ということでパフェが出てきたり鴻池新田前を「このイケズ、死んでまえ」と聞き違えたりするような舞台ではなかった。

それでも、この舞台にはこれまでに観た作品のイメージとは違う食感があった。下手からバラバラと舞台に上がってくる俳優達、台詞が一回りするころには一人ずつの個性のあからさまなばらつきに引込まれていく。そもそも身長やふくよかさといった外見や装う年齢の違いというのはあるのだが、それ以上に俳優達の演技や居ずまいに人物のコアにあるものの異なりがしっかりと作り込まれていて、思慮とか、犯人への感情とか、一人の命を奪うことの重さへの感性とか、様々に交わらない個性や価値観のベクトルが束ねられることなく、鼓動を止めることなく、空間に描き出されていく。時節柄換気という意味も兼ねたのだろうけれど、開演まもなくに暑さに窓をあける態で舞台上手側の扉が劇場外と繋がるほどに大きく開かれ、どこか煮詰まりきれないルーズさを持った空間が生まれる。そしてそのルーズさ故にこれまで観た「12人の・・・」とは違うしなやかな纏まらなさが生まれ、その中での人物達の個性が場の熱に滲まず、とてもリアルな質感を持って伝わってくる。戯曲を知っていてもその展開の企みや演じての機微に捉えられる戯曲を描く確かさに委ねる一方で、なんだろ、良質なヒューマンドラマを観た感動ということに丸まらない市井の女性達の風貌や存在感が、ひとつの結論に達した充足感とは別腹でざらざら感を伴って存在し続け終演後も心から離れない。
でもそれは、この舞台の果実だとも思った。秀逸な戯曲の見所にはちゃんとメリハリもつけられて、でもその高揚に溶解することなく、俳優達が異なるテイストを献身的に編み続けたロールの個性がしっかりと刻まれ、その実存感が終演時に場を去って行くそれぞれの姿にも鮮やかに残る。もちろんあるものはその後ナイトゲームを観に行くのだろうし、行きつけのバーに立ち寄りカクテルを口に含む者や、家に帰りその結果への感謝を神に祈りつつ慎ましく夕餉に向かうものもいるだろう。淡々と何事もなかったようにこの時間を心に封印し日々の暮らしに再び埋没するものもいるだろうし、ついその顛末に少し尾ひれをつけて友人に語ってしまうものもいるかもしれない。

正直なところ、熱量とか吸引力とかいう観点からすれば、私が観た『12人の怒れる・・』のなかで今回の舞台がベストというわけではなかった。これまで気付かなかったけれど男芝居でなければ作り得ない質量というのもあるのだと思った。
ただ男にしか作れないテイストがあるが如くに女性だけの座組ということでの面白さは間違いなくあって、男とは違う質感の下世話さが場を鈍にしないし、何よりも男性が編むものからは受け取れなかった登場人物達が戻る日々への俯瞰や感慨が終演後の余韻の中で自然にくっきりと浮かび上がってきたことはとても新鮮で興味深かった。これまでは、陪審員たちが部屋を閉めたあとに残された空間の質量が強く焼き付き、今回のようにその扉の外へと去って行った者達の時間や日常に想いを馳せたことはほとんどなかった。演出や俳優達の醸すテイストが、戯曲の味わいを反芻させてくれたその先で、戯曲に紡ぎ混まれた、でもこれまで気付くことのなかった引き出しをもうひとつ開いて見せてくれたようにも感じた。
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江古田のガールズ12周年記念公演
『12人の怒れる女』
2021/03/30 (火) ~ 2021/04/04 (日)
@下北沢 「劇」小劇場
脚本:
レジナルド・ローズ、
訳:
額田やえ子
演出:
山崎洋平
出演:
山田瑞紀、桑田佳澄、高瀬あい、
釜野真希、柴田時江、杉田のぞみ、
田中あやせ、丹下真寿美、堤千穂、
常松花穂、三上由貴、やまうちせりな

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