キ上の空論『ピーチオンザビーチノーエスケープ』の感想メモ
2月12日夜にシアターサンモールで観た
オフィス空の上 キ上の空論 #12
『ピーチオンザビーチノーエスケープ』
の感想です。
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モチーフになったであろうその監禁事件はセンセーショナルだったし信じがたい出来事でもあったので記憶に残っていた。ただ、その時にはどうしてあのような形で長期間の監禁が成り立ってしまったのか、常識的に考えれば極めて危ういその状態が崩れずに続いたのかが当時の週刊誌やテレビの報道からではのみ込めなくて、その起承転結の表層だけ、それも虫喰いのまま与えられたような印象がずっと残リ続けた。テレビのむこうで事件の外側を語るたくさんの説明から極めて曖昧にしか、干からびた概念としてしか、内側にあるものを受け取ることができない違和感があった。
それがこの舞台では真逆だった。
正直なところ、舞台が始まってから暫くは舞台上の世界の設定がうまくつかめなかった。これまでの作り手の作品からの期待で選んだ舞台、予備知識を全く持たずに客席に座ったこともあり暫くは当惑もあった。そもそも作り手にはその思い当たる事件を型紙というか踏み台にこそすれ、事件の詳細を描写したり分析して社会派の芝居を作ろうという意図はなかったように思うし、実際のところ出来事の全容が終演時にトレースしされて現実と重なり像を結ぶわけでもなかった。でも、仕組まれたいくつかのトリガーがうまく機能して、すっとあの事件の記憶が引き出され、舞台は受け取ることのなかった当事者の内なる想いの風景に翻る。その外側に断片的な事件の姿を垣間見せつつ、その想いのありようを鮮やかに紡ぎ出す。揺蕩いがあり、苛立ちがあり、鈍があり、行き詰まり感にも諦観にも染まる、なんだろ、必要な分だけ事件の概要を観る側の記憶で補いながら、その心風景を立体感を持った感覚として物語に、舞台空間に、現出させていく。
俳優達には、そのイメージを単にその場に描くだけではない、それを心に感覚や想いや理として観る側に渡す表現の切っ先があり見事に巻き込まれる。それぞれに身体を張って表層の個性に薄っぺらさも熱も呼吸も描き出しつつ、そこに留まらない全体のミザンスを構成する存在や動きや色の出し入れがあり、心の緩急や刹那の色や空気や質量を組み上げ鼓動させる力量があって、圧倒的に捉えられ、見惚れる。美しさも汚さも曖昧にならず突き抜けエッジを持って編まれる。女優も男優も舞台に描かれるどうしようもなさを下卑に丸めないテンションや切れが際立ち、舞台を支え、観る側を手放さない。
終演時には、観客としてすごく消耗していた。洗練と力業が互いを高め合っているような舞台だとも感じた。そしてその中で、とてもビビッドで生々しくあからさまに思えたその先で、舞台のこの表現たちでなければ受け取り得なかった、自らが手なづけ得ない、逃げることのできない、人間のコアのありようがしっかりと削ぎ出されていたように思う。
ちなみにこの舞台、R-18が宣言されていて、社会通念上R-18としなければ表しえないものもあることを実感したりも。
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オフィス空の上 キ上の空論
#12『ピーチオンザビーチノーエスケープ』
@シアターサンモール
作・演出
中島庸介
出演
藍澤慶子、井上実莉、小嶋直子、斉藤マッチュ、佐藤沙千帆、田中あやせ、谷沢龍馬、仲井真徹、難波なう、春山椋、三浦真由、美里朝希、宮島小百合、山田梨佳、山谷ノ用心、ゆにば
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