私の嫌う顕示欲的消費、過考察
「私の一部」が盲目的に、私利私欲のために消費される恐怖心は分かるだろうか。
大森元貴のことだ。
2020年、Mrs. GREEN APPLEの休止中に現れたSiip。
周知のようにミセスとSiipには関連があり、その双方が考察的要素を含んでいるため、SNS上では様々な憶測が飛び交う。
しかし当時は、そこまで酷い状態では無かった。
どちらにも"まだ"お互いを関連付ける要素は無かったからだ。
2023年、Mrs. GREEN APPLE アリーナツアー
「NOAH no HAKOBUNE」。
お互いを関連付けることはないと思っていた私は、1番衝撃を受ける形でその2つが交わる様を目にした。
問題はその後。
ミセスとSiipを紐付けた、目に余る度が過ぎた考察が見受けられるようになった。
「○○のティザーやコンセプトアートにSiipと関連してそうなものがある!」
というまるで根拠の無い主張達だ。
Siipからは確かに、神からの啓示とでも言うような、何か伝えたい「メッセージ」を感じ取れる。
先程noteにSiipの素晴らしい考察を載せた友人の言葉をそのまま借りるのならば、「現代への警句」。
そんなもの達について考え、たとえ何も分からなかったとしても想いを巡らせるのが、曲に対して私達から返せるものであり、彼らへの返答なのではないか。
それをあたかも「気付いちゃいました!この部分Siipに見える!」と自らの自己顕示欲を満たすために利用している。
もし本当にそうやって見えたとしても、あまりに浅慮だろう。あるいは彼らに対し盲目的すぎるか。
あえて挙げるが、何の為にナハトムジークのアートにSiipの要素を入れるというんだ。
TWLの"近いうちにアメリカで..."もそうだ。
こじつけの自覚はあるのだろうか。
当時Siipがノアでの登場で(界隈内で)広く有名になり、そのメッセージ性などを正しく考え込んだ反響があると期待していた自分は少し絶望した。
今回の友人のnoteも間違いなく多くの人の目に留まるだろうからこそ、雑に消費されかねないことにフラストレーションを感じている。無駄な感情だな......
これらが過度に行なわれるのは彼らの望むことではなく、失礼でもあることに気付かないのかと。
本人達が楽曲というエンタメの形で届けているとはいえ、その消費の仕方はエンタメにすら程遠いのでは。
自らの一部を削り出したとも言えるものを、そんな扱いをしたらどれだけ気分を害すかも考えないのかと。
反響自体は嬉しいかもしれない。
ただ、私利私欲の為に消費されていると感じた瞬間、それがどれだけ「気持ち悪く感じる」かは想像に易いはずだ。
何かに触発され、行動することは素晴らしい。
だが、Siipについての考えを語る投稿をこれまでまともに見た記憶の無いことが答えだろう。
彼らの詩や音が好きなら、
乱暴な消費をするのではなく、
意味を考えてみないか?
その行為は「好き」から遠くかけ離れている。
こんな独りよがりのnoteに書き残したところで、来年Siipが姿を現した暁にはまた良くないものを目にしそうだ。
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