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生い立ち(幼少期~両親離婚編)
変わった幼稚園
2003年の1月14日僕は大阪府で生まれた。
4人家族で姉が1人、母親はヤクルトレディ、父親はパチンコ屋の店長をしていた。
生を受けてから現在までで最古の記憶は幼稚園の頃の記憶だった。
それも鮮明に且つ沢山の記憶が残っていた。
なんでこんなにも記憶に残っているのだろうと考えた時に、通っていた幼稚園が強烈だったこと以外思い当たらなかった。
それほど僕の通っていた幼稚園は変わっていたのだ。
どうしてそんな幼稚園に通うことになったのかというと、父親はパチンコ屋の店長ということもあって結構なお給料をもらっていたらしい。
しかし散財癖が酷く、変なことにお金を使うくらいなら子供にいい教育を受けさせようと、母親が私立の幼稚園に入れてくれたのだった。
その幼稚園は、誰もが一度はニュースで聞いたことがある森〇学園の幼稚園で、とても変わっていた。
教育勅語というものを皆さんはご存じだろうか?
浅知恵の自分がこれに関してとやかく言うと恐ろしい目に合いそうなので省くが、戦前の日本が国民の天皇や国への忠誠心を高めるために書かれたものという認識でいてくれたら問題ないと思う。
(とても良いことが書かれている)
その教育勅語がどうしたのかというと、僕の幼稚園には教育勅語を正座しながら暗唱する授業と、全校集会で大声で合唱する文化があった。
うん。やばい。
さらに言えば園長はゴリゴリの右翼思想の持ち主である。
園児に自分の思想を植え付けようとしとるやん、、、
てなわけでとてもやばい園長だったのだが、後に園長がニュースに出て起訴されているのを見て(全く違う件で)、妙な納得感があったのを覚えている。
これは余談なのだが、いまだに教育勅語の冒頭三節くらいが口からスラスラ出るのを考えると、我ながら3年間途方もない数暗唱してきたんだなと感心する。
それにしても正座で暗唱する時間は辛かった、、、
他にも僕の幼稚園には年に一回力士に来てもらい、1クラスの園児全員VS力士1人で相撲を取るという謎のイベントがあった。
幼稚園児にとって力士は文字通り化け物で、毎回そのイベントは園児の泣き声の大合唱となっていた。
その光景を周りの先生や保護者が見て応援したり、笑ったりと、傍から見たらやばい集団である。
僕はそのイベントが兎に角大嫌いで、毎回大号泣していた。
そのイベントのせいで今もなのだが、自分より体の大きい人に少し恐怖心を抱く様になってしまった。
いじめと初恋
私立の幼稚園に入れてもらった僕だったが、小学校は地元の小学校に進学した。
全校生徒が70名ほどの廃校寸前の小学校だった。
案の定2年生の時に近くの小学校と統合することになり、クラスメイト10人(1クラスしかない)で一学年70人ほどいる学校に乗りこむという完全アウェー状態だった。
こういった異分子が入り込んだときに発生するのがいじめで、その対象は僕だった。
僕は生まれつき天パで最初はそれのいじりから始まったのだが、徐々にいじめに発展していった。(僕は天パの人は人生で一度はいじめられる説を提唱している)
何よりつらかったのは、統合前の小学校で仲良かった人がいじめに加わっていたのと、先生が助けてくれなかったことだ。
同調圧力とはすごいもので、こんなにも人を変えてしまうものなのかと思った。
自分も加わなければ自分が対象になるという恐怖心もあったんだろうなと、今ならその子の気持ちを思いやることもできる。
しかしこの話は良い話で終わる。
そう。僕を助けてくれた人がいたからだ。
しかも同じクラスの女の子で。
いつものように教室の隅で囲まれて悪口を言われていると、その女の子が「辞めなよ。カッコ悪い」と怒鳴り込んでくれた。
カッコよかった。
周りに流されず自分を突き通すその姿に痺れた。
それ以来いじめはピタリと止んだ。
後から知った話だが、その子は僕のことを好いてくれていたらしい。(この先A子と呼ぶ)
ただその時僕にも好きな人がいた。(この先B子と呼ぶ)
キッカケはわからないが、気づいたらその子を目で追っている毎日だった。
そんな毎日が続いたある日、僕はいても経ってもいられず好きな人がいると友達に相談をした。
それが幸か不幸か、その友達が周りに言いふらし本人のB子にも伝わってしまった。
2人の間に微妙な空気が流れ、話すのも気まずかったのを覚えている。
しかし幸か不幸かと言ったように、結果的にはその子から告白を受けることになる。
しかもA子と同時に。
ある日の放課後A子とB子両方と仲がいいC子に呼び出され行くと、A子とB子がいた。
困惑していると、「どっちと付き合うか選んで」とC子が言ってきた。
僕は状況が理解できず、頭の中が?でいっぱいだった。
話を聞くと、A子は僕がいじめられていた時から僕のことを好いてくれていたらしい。
そしてB子は僕が好意を持っていることを聞いてから、段々と僕に興味を持ってくれていたらしい。
それを知ったC子が何故かいても経ってもいられず、この場を設けたらしい。
そして決断を迫られ、僕はB子を選んだ。
勿論A子にはとても感謝をしていたし、人としてはとても好きだったが、恋愛感情はそれを凌駕するものだったらしい。
こうして僕はB子と付き合うことになり、僕の初恋は実って終わった。
と、言いたいところだったが、その日の夕方に別れることになる。
誰かと誰かが付き合うと知ればおちょくりたくなるのが小学生で、僕たちもそれの被害にあった。
B子はそれが嫌で付き合ったその日の夕方に別れようと言ってきた。
その場では強がって承諾したが、帰り道馬鹿みたいに泣いた。
こうして僕の初恋は実ったか実ってないのか分からないが苦い思い出となった。
今となっては小学生の恋愛なんて所詮おままごとみたいな物だよね、と笑い話に出来るが、当時の僕は世界の終わり位に落ち込んでいた。
思春期のコンプレックス
いじめや初恋といい、小学2年の年は僕にとって辛いことが多い年でその最たるものが両親の離婚だった。
僕が物心ついた頃から両親は仲が悪く、家中に親父の怒鳴り声が響いたり、壁を叩く音が響いたりしていた。
僕の親父はとにかくこだわりが強く、変わった人だった。
一度サッカーの習い事の為に買って貰ったボールを友達との遊びで使ったら、ブチ切れられて扇風機を僕目掛けて蹴飛ばして来たことがあった。
サッカーの習い事のために買ったものを友達と使うことに対して怒るのはわかるが、そこまでブチ切れる様なことなのかと困惑した。
そういった性格もあって親父は母にも当たりが強かった。
そういうことなど諸々重なり、両親は離婚することになった。
こうして、母と姉と僕の3人で近くの安いアパートに引っ越した。
2Kのボロいアパートで18歳まで暮らし、家族3人川の字で寝た。
この家が10年以上続く僕のコンプレックスとなる。
思春期というのは本当に厄介な物で、小2小3と気にならなかった自分の家が、周りに見られるのが恥ずかしいと気にする様になっていく。
「理人の家行こうよ!」と言われる度、胸がドキッとし、焦り口調で「俺の家は無理」と返していたのを覚えている。
幼かったなあ。
今思えば家のボロさなんて何も気にする必要ないし、それをバカにする奴とは関わらなければいいだけの話だったのに。
いじめられる様になってからか、生まれつきの気質かは分からないが、僕は周りの目を気にして生きてきたなあと思う。
それは今もなのだが、これとは一生付き合っていくものだとある種の諦めのように、受け入れられるようになってきた。
そんなこんながあって、小学生時代で1番濃い2年生が終わっていった。
その後はごく平凡な小学生時代を過ごしていくことになる。
その後の小学生時代の記憶はうっすらとしか無く、小3でリコーダーを極めたことと、小6がめちゃくちゃ充実して楽しかったこと、同じく小6の時に、将来ゲーム実況者になりたいと思ったこと以外の記憶が殆どない。
小学生時代の話はこんなところかなあ。
余談だけど、初恋の話のA子、B子はそれぞれ小学3年生、4年生の時に転校することになる。
自分が恋愛関係で関わった2人が転校したことは、僕を切ない気持ちにさせ今の今まで残る深い記憶となった。
2人は元気にしてるのだろうか。
A子にはあの時の感謝を伝えたい。