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縄文文化を世界に広げたオスの狩猟・生殖行動と火山噴火

こんにちは、今回は「私が妄想した日本古代史 」の中で、縄文時代の中で記した「世界へ広がる縄文文化」のパートに関して、理系的な視点も交えた考察を記します。

先の記事では、以下のように記しました。

彼らは小舟で近隣の集落と物々交換の交易を行っていたため、縄文の土器や翡翠や黒曜石などが、日本列島の全地域へ広がります。シベリアや満州などの日本海沿岸からも縄文の人々との交易の痕跡が見つかっており、日本海を海流に乗って反時計回りで周回する交易路があった様です。南米からも縄文土器が見つかっており、縄文の人々の一部は米大陸にまで移住していた様です。
縄文の人々は、人が居なかった朝鮮半島にも移住したため、朝鮮半島にも縄文文化が広がります。

https://note.com/rihaku_mousou/n/n93874dbdec70

これ、縄文文化が世界へ広がったと言うと、最近のテレビで良くある「日本人すごい」話かと眉に唾を付ける人も多いかと思いますが、そうではなく、科学的な根拠に基づいた話です。

以下では、その科学的な根拠を概説すると共に、縄文の人々が何を目的に世界と交流や移住を行ったのかの謎を、理系的な視点も交えて解明してみたいと思います。

科学的な根拠

縄文文化が世界へ広がった科学的な根拠は、主に①黒曜石の出土分布、②翡翠の出土分布、③縄文土器の出土分布の3点です。加えて、比較神話学や民俗学からも、裏づけられます。
多くの人は、科学的な詳細には殆ど興味ないでしょうから、ここでは簡単に概説するだけに留めます。

①黒曜石の出土分布
 石器時代は金属が発明されておらず、縄文の人々も石を道具として使っていたわけですが、普通の石は「物や動物を叩く」ことに使えても、皮を剥いで肉を切り出す刃物にはなりません。これに対し、火山から高温状態で噴出したマグマが急速に冷えて固まるなどの現象でできた黒曜石は、ガラスのように固く、特定方向から叩くと結晶面に沿って簡単に割れる性質(結晶学で劈開と言います)を持っているため、鋭利な刃物になります。これが打製石器です。
黒曜石は、どこにでもある石ではなく、数少ない火山で採れる貴重な石であるにも関わらず、その黒曜石で作った刃物は使っているうちに欠けたり割れたりする消耗品であるため、大変に重宝されました。日本は火山列島なため、世界的には貴重な黒曜石を比較的豊富に採れたんです。
科学的には、黒曜石に含まれる物質の濃度が火山によって異なるため、出土した黒曜石を蛍光X線分析等で調べると、その産地が明確にわかります。出土した地層から年代を推定し、産地が日本だとわかれば、縄文文化が世界へ広がったことがわかるわけです。
参考:小田静夫「黒曜石研究の動向」

②翡翠の出土分布
 深緑の半透明な宝石の翡翠も、極めて特殊な地学的条件でしか形成しない貴重な宝石です。中国や朝鮮半島にはなく、それが日本では新潟県糸魚川市近辺で多く産出したため、縄文時代から奈良時代頃まで日本の特産品でした。
これも、科学的には、含まれる物質の濃度が産地によって異なるため、出土した翡翠を蛍光X線分析等で調べると、その産地が明確にわかります。出土した遺跡や地層から年代を推定し、産地が日本だとわかれば、縄文文化が世界へ広がったことがわかるわけです。
参考:Wikipedia 「ヒスイ」
参考:Wikipedia「糸魚川のヒスイ」

③縄文土器の出土分布
 縄目の紋様が入った縄文土器は世界でも独特な紋様であることに加え、世界の殆どの地域ではまだ土器が発明されていない時代だったため、古代の地層から縄文土器と類似の紋様を持った土器の欠片が産出すると、「縄文文化が伝搬した可能性がある」ことがわかります。
ただし、一口に縄文土器と言っても、時代や地域によって紋様が異なりますし、偶然に世界の他地域で類似の紋様の土器を発明した可能性もあるため、これだけでは科学的な証拠にはなりません。それでも、複数の紋様が非常に類似したり、遺伝子や神話や民俗などの他の根拠も合致した場合、合理的に「縄文文化が伝搬した蓋然性が高い」と言えると思います。
参考:謎の国々は実在したか?(5) ~ エクアドルに縄文土器が出た!?
参考:宮崎の縄文土器が南米バルディビアへ?

④比較神話学や民俗学
 比較神話学や民俗学からも、縄文文化が世界へ広がった痕跡を伺うことができます。先の記事に記した「ハイヌウェレ型神話」が代表例で、東南アジア、オセアニア、南北アメリカ大陸に広く分布していることが知られています。モンゴルや南米ペルーの人など、日本人と顔も似ていますよね。オセアニアの島々の精霊信仰も、日本人の万物信仰と似ており、どちらもユダヤ教・キリスト教・イスラム教や儒教や仏教などとは全く異なります。これらの起源が全て縄文だとは言いませんが、縄文時代の日本と大陸を含む日本海沿岸やオセアニアの人々は、相互に文化を伝搬し合う共通の文化圏だったのでしょう。
なお、比較神話学や民俗学は科学ではありませんが、神話や信仰や風習は何千年もの時を越えて親から子へと継承される性質を持っているため、理系から見ても科学と同等に信憑性が高い証拠だと思います。文献の記述から史実を探る際にも、現代の価値観で読むと曲解してしまいますので、当時の人々の神話や信仰や風習と、それが国内や世界のどこと共通なのかを正しく知っておくことが非常に重要です。
参考:吉田敦彦「日本神話の源流

なぜ移住したのか?

上記の科学的な根拠から、縄文文化が世界へ広がったまでは学術的に認められていますが、私にはその目的がとても謎で、腹落ちしませんでした。多くの学者は「交易」が目的だろうと推定しているようですが、当時の丸太船で大洋を渡るのは命がけだったでしょうから、交易による小さな利益が目的ではなく、命を懸けるに値する重大な理由があったと思うんです。縄文時代は集落近辺の自然だけで経済が成り立っており、他の集落との物々交換も金銭との交換も忌み嫌う贈答文化ですので、命をかけてまで遠方に渡航して「交易」を行ったとは全く思えないんです。
当時の縄文の人々の生態や文化や価値観に沿ってこの謎の解明に挑んだ結果、これは「①オスの狩猟・生殖行動」と、「②火山噴火からの避難」の2つが目的ではないかとの結論に至りました。

①オスの狩猟・生殖行動
 これを説明するためには、古代日本の家制度や婚姻制度から説明する必要があります。日本の家制度というと、「父親が家主」で「長男が継ぐ」という男尊女卑のイメージを持たれている人が大半ではないかと思いますが、これを「父系制」の「長子相続」と言います。しかし、古代から平安時代のあたりまで、そもそも日本は「母系制」でした。家というのは、母親から娘へと母系で引き継がれるもので、娘の方が優遇され、男子は成人すると家から出て行くものだったんです。平安時代の源氏物語や万葉集などを見ても、貴族は男性が女性の家に夜這いをして求婚し、婚姻後も同居せずに夫が妻の家に通う「妻問婚(通い婚)」の婚姻制度だったことがわかりますが、これも「母系制」が前提だったためです。(ただし、一夫多妻制なので、男性の側は複数の家へ通います。)
縄文時代は多くの集落が3~5軒程度の家で構成されていますが、これも「母系制」の集落で、男子は成人すると集落から出て行って他の集落の娘と結ばれる「妻問婚」だったと思われます。おそらく、婚姻や夫婦という概念自体がなく、メスは他の集落から訪問してくる健康で強い複数のオスと性行為を行い、健康で強い遺伝子を受け継いだ子孫を残すという、動物として種を保存するための生殖行動だったのではないかと思います。オスの側も健康で強ければ複数の集落のメスへ遺伝子を残したでしょう。
男性の側から捉えると、男性は集落の中でも狩猟や漁労が主な担当で、集落から離れて遠方の山や海や河川にまで出かけていくことが多かったでしょう。その際に、近隣の集落の男性と共同で狩猟や漁労を行ったり、日が暮れたら近隣の集落へ寝泊りするなど、男性は近隣の集落への行き来も行っていたでしょう。そこに、縄文の贈答文化と妻問婚が加わります。狩猟や漁労を行った男性は、宿泊した集落へ獲物を贈答します。物だけでなく、家の建築や補修などの肉体労働も贈答したでしょう。それに対し、集落の側は食事や宿泊を提供する贈答を行うと共に、集落の娘との性行為も贈答したでしょう。これは売春行為ではなく、女性から見ても他の集落の男性から健康で強い遺伝子を贈答されて種を保存する重要な行為だったのでしょう。
私は、この際に黒曜石の刃物や翡翠の宝石なども、集落から男性への贈答や、男性から他の集落への贈答として、伝搬したのだろうと考えています。食物を土器に入れて弁当や土産として贈答したでしょうから、縄文土器も当然に伝搬します。つまり、シルクロードの貿易商人のような一部の人が遠方との貿易を行って文化が伝搬したのではなく、オスの狩猟・生殖行動に伴って、ある集落から近隣の集落へとバケツリレー式に贈答が行われていった結果、日本列島全体や大陸を含む日本海沿岸やオセアニアに縄文文化が広がったのでしょう。

余談になりますが、古事記や日本書紀の神話にも、地上へ降臨した神や神の子が村落を訪問し、そこで娘を差し出されるという、「母系制」の社会が前提の物語が散見されます。天皇(大王)の皇位は父系の血統主義ですが、これは天の神と一体化して国の安寧と豊穣を司る「祭司の継承」という神事・宗教行為であって、父系制の家制度ではありません。古代は天皇も家制度は「母系制」だったようで、飛鳥時代までは皇位が継承される毎に宮殿が有力豪族の居住地を転々としていることが多いのは、有力豪族の家へ「婿入婚」を行ったためだろうと思われます。また、そもそも中国の北方や朝鮮半島の父系の血統主義を持ったアルタイ系騎馬遊牧民では、王権は長子とは真逆の「末子継承」が基本です。古事記や日本書紀を見ると、神話の時代から応神天皇のあたりまでは、皇位の継承者として末子が優先された例が散見されるのは、この文化の影響でしょう。
中国や朝鮮半島の多くは「父系制」の家制度ですが、中国には長子相続の習慣はなく、兄弟の中で優秀な男子が家を継ぐことが基本になっています。日本でも平安時代以降の武家は「父系制」になりましたが、江戸時代に至るまで長子相続の習慣はなく、中国と同様に兄弟の中で優秀な男子が家を継ぐことが基本になっています。
年齢が上の長男が優先される「長子相続」や、女性が差別される「男尊女卑」は、14-15世紀頃に李氏朝鮮で生まれた文化で、朝鮮の儒教に由来するものです。
日本で父系の「長子相続」が基本となったのは、明治31年の民法制定によるもので、そもそもの日本文化ではありません。現在の皇室典範で規定された長子優先の皇位継承順位も、明治初期に創作されたもので、そもそもの皇室の制度ではありません。現代の多くの日本人は、これらを古来の日本文化で、男尊女卑だと否定しているようですが、完全な誤解です。縄文の昔から日本はカカア天下で娘が家督を継ぐ、女性優遇の文化だったんです。

②火山噴火からの避難
 前節で、オスの狩猟・生殖行動に伴う集落から集落への贈答のバケツリレーにより縄文文化が広がったと推察しましたが、これだけでは、命がけの太平洋横断が必要な米大陸までも縄文文化が広がっている理由が説明できません。どうやらこの理由は、約7300年前に鹿児島沖で鬼海カルデラという海底火山にて世界最大規模の火山噴火が発生し、九州南部の縄文の集落が壊滅した際に起きた、命がけの避難行動だった模様です。

日本周辺における鬼界アカホヤ火山灰(K-Ah) 広域テフラ分布の地図、7.3ka(7300年前)

約7300年前の鬼海カルデラの大規模噴火では、図のように鹿児島市のあたりまで火砕流が到達しており、その瞬間に火砕流に巻き込まれた人々は死滅したでしょう。その後、九州南部には30cmもの降灰が積もり、殆どの植物が枯れて草食動物も死滅し、狩猟採取の生活を送っていた縄文の人々も深刻な食糧危機に陥ったと推察されます。九州南部では、この鬼海カルデラの降灰が積もった地層を境に縄文の遺物が全く無くなっており、この噴火で縄文文化が壊滅したと推察されています。
興味深いことに、この九州の縄文土器と類似した紋様の土器が南米エクアドルで出土しています。特に宮崎の跡江貝塚遺跡から出土している土器と南米エクアドルのバルディビア土器との類似性は著しく、正にこの降灰の被害が甚大だった宮崎から避難した人が黒潮に乗って米大陸へ漂着した可能性が伺われます。おそらく、多くの人が舟に乗って避難したでしょうが、奇跡的にごく一部の人が黒潮に乗って太平洋を横断して北米の西海岸へ流れ着いて、その文化が南米まで広がったというのが実態でしょう。
また、朝鮮半島では旧石器時代の遺跡がなく、旧石器時代は人が住んでいなかったと推察されるにも関わらず、この鬼海カルデラ噴火と同時期から朝鮮半島南部にて日本の縄文土器である隆起線文土器が出土しており、この噴火からの避難で九州北部から縄文の人々が朝鮮半島へ移住したと推察されます。

日本列島や近海には火山が非常に多く、世界では貴重な黒曜石や翡翠やレアメタルなどの鉱物資源に恵まれている利点がありますが、一方で火山噴火や地震により壊滅的な被害を受けることが稀にあります。この双方の中を必死で生き抜いて種を保存した縄文の人々の行動こそが、世界への縄文文化の伝搬であることがわかりました。

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