なぜ企業研修の講師をしているのか?そこに行きつくまでの話。幼少期からら中学生。
自分が企業研修の講師にたどり着くまでを何回かに分けて書いていく。
前回は小学生時代にプラモデルやラジオ制作などが好きだったという話を書いた。
それよりも前、幼稚園の時の話にさらに時間が巻き戻る。
僕が通っていた幼稚園は埼玉県朝霞市にある「朝霞和光幼稚園」というところだった。今は名前が変わって「菩提樹幼稚園」となったようだけど。。。
お寺がやっている幼稚園で、本堂があり、その横に幼稚園があった。
僕はバスで通っていた。
幼稚園に入って一番最初に気になったのが、「オルガン」である。
先生がオルガンを弾いてくれて、皆で唄うのが大好きだった。
オルガン弾けたらいいなぁなんて思っていたんだろうなぁ。
ある時、幼稚園から帰るバスを待っていた時、何の気なしに本堂の地下にある教室をのぞいてみたら、なんと同級生がオルガンを弾いているではないか。
な、なにをやっているんだ??どうしてオルガンを弾けるんだ?
物凄い衝撃を受けた。
じきに分かったんだけど、「オルガン教室」だった。
それを知って、直ぐに「僕もオルガン習いたい!」と母親に頼み込んだ。
しかし、通わせてはもらえなかった。
僕には妹と弟がいて、まだ小さくて、幼稚園が終わったあとにあるオルガン教室に、この小さな兄弟の手をひいてそこから家まで園バスではなく帰らなきゃならない状況ではとてもムリということだったようだ。
生まれて初めて自分から習い事をしたいといったのに。
とても悲しかった。
でも、仕方ない。子供なのであきらめも早かった。
それでも楽器には興味があった。
運動会の時、タイコをたたきたかった。凄く、たたきたかった。
がしかし、背が大きいという理由でベルリラ(手で持つ鉄琴)をやることになった。
これをやりたかったのではないのだ。。。
そんなんで、自分がやりたかった楽器を弾くことが叶わなかった。
小学生になり、妹が幼稚園に通うようになった。
そうしたら、なんと、妹はピアノ教室に通うことになった。しかもピアノまで買ってもらって。
その2年後、弟も幼稚園に入った。僕はその時6年生になっていた。
その弟も、ピアノ教室に通わされた・・・
あれだけ、オルガンを弾きたかった僕は習わせてもらえず、妹と弟はならっていた。でも彼らはそれほど好きではなかったみたいだった。
小学3年生から少年野球を始めた僕は、いつしかピアノを習いたいなんてことを言わなくなった。
小学6年生になったその頃だった、同じ野球チームの友達がギターを手に入れた。
今度はそのギターに興味ががぜん向かったのだ。
どうやって弾いたらいいのか?しょっちゅうその友達の家に行っては、ギターを触らせてもらい、ドレミから教えてもらった。
フォークギターだったのだけど、そもそもフォークソングなるものを知らなかった。我が家にはステレオというものがなく、音楽そのものに触れる機会が少なかった。知っているのはテレビから流れてくる歌謡曲だけだった。
友達からその時代のフォークソングとやらを教わった。
吉田拓郎やかぐや姫、チューリップなどをその頃知ることになる。
僕は「かぐや姫」のことをなんとなく好きになった。
自分のギターが欲しくて、父親にねだった。そうしたら買ってきてくれたのだ。がしかし、自分が欲しかったタイプのものとは違ったのでちょっと残念だった。子供って残酷だな、今思うと・・・
ドレミ・・・とひとつづず音を出すことしかできなかった自分が、あのフォークソングでジャラーンと出す音ってどうやってるんだろう?あぁコードってのがあるのか・・・ふむふむ。で、どうやって弾くんだ???などと思いながら少しずつ練習をしていった。
Cコードから始まり、Em、Amが弾けるようになった。ここで誰もが味わうFコードに躓いた。仲間の一人はここで脱落していった。
しかしめげなかった。Fを克服する前にBmが弾けるようになった。それからすぐにFも弾けるようになる。
色んな曲が弾けるようになってがぜん楽しくなっていった。
このころにはもう中学生になっていて、部活は野球部だったけど、暇な時間いはギターを弾く少年になっていた。
中学2年の冬に、お年玉をためて当時5万円のギターを買った。
嬉しくて嬉しくて、毎日毎日弾いた。
このころから歌もうたうようになっていった。
かぐや姫や南こうせつ、このころにはアリスも弾いたり歌ったりしていたなぁ。
友達の家に上がり込んでは、一緒に歌っていたのだった。
実はこの時の経験がまわりまわって研修講師につながってくるのである。
それは高校生の時の体験がさらに大きな役目を果たすことになるのだ。
つづく・・・