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アーティスト・三浦春馬 VS 潔癖症な現代

三浦春馬さんの死と生き様に学ばせてもらったから、感謝を綴りたいと感じた。

失礼ながら三浦春馬さんの活躍は今回の報道をきっかけに知った。

それぐらい彼の事を知らないので、本当に悲しいと言ってしまうと嘘になる。というか失礼すぎると思ってる。

ぼくとは吸ってる空気が全く違う遠くの人に貰えたものは、何かで誰かに返したい。そう思わせてくれた。

僕が思う三浦春馬さん

誤解なきよう断っておくと、亡くなられた人へ哀悼の意がある。

でも実感として「悲しい」は遠い人過ぎて持ちにくくて無責任だと思ってしまう。
故人を悼む気持ちと自分の勝手な感情は別だと思ってる。
自己保身として表明させてください。

前提は以上。


三浦春馬さんの活躍を知り、ファーストインプレッションは、
「この人アーティストだ。」

浮気報道へのご自身のレスポンスを見て直感した。

好きを貫いて何故人はいけないのか?

ルールを踏まえる大人で、しかも人にみられる事を生業とした人には、この発言はとても勇気のいることだと思う。

とてもピュアだと思った。

否定される事を分かりながら、仕事がなくなる危険性も省みず、それでも世間に伝えたいことを伝えた。

先天的なもの+世間が期待する像で、役者=三浦春馬という役割を渡されて全うするけど、ぽっかり空いたままの隙間があったんだろう。

大抵の人は満足できる境遇にいながらご自身は空虚だったんかなって。
ドラァグクイーン役の会見で嬉々として受け答えする彼にそう感じざるを得ない。

とても人間らしい人だと感じた。

昭和の俳優は記者会見という公の場で煙草を吸うことを認められてた。
そんなこと令和の今なら一発アウト。

三浦春馬さんは昭和の時代の方が生きやすかったと想像する。
昭和賛美じゃなくて、今より人が「人」らしかった時代。
動物的⇔人間的のモノサシで言う動物的に寄ってた時代。

時代が過度な綺麗を求めてる

なんかここ2日、誰かと話をする度に三浦春馬さんの話題が出て、その都度思うこと。

現代は潔癖症という現代病だ。

ネットがあるから友達や知り合いの「今」がすぐわかる。
それがコミュニケーションの当たり前になった。

ネットがない頃は会ってカッコつけてた事が、今はSNSでカッコつける。
会ってればそのまま温かい突っ込み入れることも、いいねボタン押す側もフォロワーにカッコつけなきゃならないから突っ込めない。

で、だんだんとパーソナルエリアとか他人との境界線ってか壁がより明確になる。

「盛る」行為が当たり前になるから、「盛らない(率直な角がたつ意見)」行為に拒否反応を起こす。

そうやって綺麗であることへの正当性が力を強めてる。

男子の美容意識の高まりが端的に時代を表してる。

これが共通認識になって、世間という集合体の潔癖症になってると解釈してる。

現代の役者業

奇しくも彼の端正な外見は時代が求める綺麗さそのものだった。

それを演じることを生業としながら、自己表現者でいたい本当の自分が捻れていたのかなと感じる。

いつの時代も表現者=アーティストは、気高く純粋で、儚く脆い。

その人たちが葛藤のなか作る作品こそとても美しいから、人の琴線に触れる。

ずっと彼はアーティストだったんだなって、痛くなった。
憧憬に近い感覚。

個を発信していいはずの現代において、本当に求めて欲しい自分より、あまりにも時代のニーズに綺麗にはまってしまった人だったんだなと思う。

自殺という選択について

ぼくは生きてるから分からない。

正しいのか間違ってるのか、ぼくなんかが決めていいことじゃない。

このコロナで価値観が変わって行く中、彼の死が世界に与えたビッグクエスチョンは影響力ある。

時代がどう舵を切るのか分からん。

でも少なくとも、誰かのモノサシじゃなくて自分のモノサシで世界と繋がりたい。そう決心した。

ぼくの価値観を貫いて生きていきたいって、そう思わせてくれた三浦春馬さんに感謝と哀悼の意を捧げたい。

最後までお付き合いありがとうございます。

今日も素敵な一日を。

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