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いない自由 VS いる安心②
生まれたてをだっこしながら上のきょうだいとどこか(幼稚園、病院、公園など)に行かねばならない状況も少なかった。
体調の悪い子ども一人を病院に連れて行くだけでも大変なことなのに、下の子もいっしょに連れて行かねばならないなんて、考えただけで失神しそう。
すごくフレキシブルな夫とか理解のあるじじばばなどが近くにいない限り、世の多くの母たちはあたりまえのようにそういうことをしているわけだけど、とんでもない偉業を成し遂げているように見える。
偉いなぁ、すごいなぁ、と思う。
そんなふうに、ありがたいことや感謝すべきようなことは、その当時は意識していないし、
後になって気づくも、つらかった記憶の方が強烈だからかき消されてしまうのが残念。
ばーさんとの同居でよかったことととつらかったことが常にゆらゆら天秤にかけられて揺れている感じ。
(おそらく、むこうも)
そう遠くはない未来、ばーさんは寿命をまっとうするだろうけれど、そのときがきたら、果たしてわたしはもろてを挙げて
「自由だーかっっ らーーー♪」
と熱唱するのだろうか。
万歳、万歳と喜ぶのだろうか。
今までにない幸せをかみしめて毎日生きるのだろうか。
それは本当にわからない。
わたしはこの不思議シェアハウス体験をいかして、のちのちなんらか書籍化したいという野望がある。
もしも今急に死なれてしまったらまだなんも形にまとまっていないので、困る。
なんも、モト取れてない。
わたしの書きたい欲は「悶々としている日々」によって起こっているわけで、死なれてからあーだったこーだったと思い出して書けるものではないだろう。そもそも、書きたい欲はさっぱりなくなるのかもしれない。
それもあって、介護日誌もこのnoteも始めてみたのだ。
ちょっと待ってくれ。
まだ(もうちょっとは)生きててね。