何度も間違った道選び続けて 正しくここに戻ってきたの
私の好きなSuperflyの楽曲『愛をこめて花束を』にこんな歌詞がある。
何度も間違った道 選び続けて 正しくここに戻ってきたの
2012年、2013年頃、私は人生のどん底にいた。
自己肯定感が底をつき、一滴も残らない空っぽな容器のまま毎日毎日ただ息をしているだけだった。
自分には何も意味がないと思って生きてきた。
2012年、念願だった結婚をして、嫌でたまらなかったつらい仕事を辞めた。ここから私の幸せがスタートするのだと思っていた。
誰かが、何かが、きっと私を幸せにしてくれるのだと信じて疑わなかった。
そんな人間にほほ笑む者だとありはしない。人生の「当たり前」をなぜかこんなに大人になるまでわからずに来て、結婚という巣立ちの儀式をした後になって体験するとは、我ながらどれほど厳重な箱に入って育ってきたのだろうと情けなくなった。
つまり私は結婚と同時にすべてを失ったような感覚に陥ったのだ。
結婚はまさに地獄の始まりだった。
その状況で出会ったこの歌の歌詞に、何度泣かされたかわからない。
「正しい道」というものがあるとして(そんなものは自分が実際に歩いてきた過去の道であって、正しい道というものが実在するわけではない、という意見は一理あるけど今は置いておいて)、自分はいつもその「正しい道」を歩けないできた。分かれ道では「間違った道」「正しくない道」を選んでしまって後悔する。次の分かれ道では正しく選ぼうと思うのだけど、また間違えてしまう。その繰り返し。
でも、間違えて間違えてぐねぐね歩いているうちに、偶然自分の行きたかった「正しい道」に出る時がある。間違いに間違いを重ねたからこその、正しい道。間違えて「まあいいや」と思いそのまままっすぐ進んでしまったら出会わなかった道。
その偶然という名の奇跡に涙腺をやられっぱなしでした。
いつか私も、「正しい道」に出られる。
そう思えたからこそ、きっと私は今息をしていられるのだと思う。
この歌に命を救われたと言ってもいい。
そして実際どうだったかと言えば、
「正しい(と思われる)道に出られた」
私は幼い頃から作家になりたいと思って生きてきた。
その夢を叶えるために何をすべきか、自分なりに考えてきたつもりでも、全く行動できていなかった。それまでは「勉強、仕事が忙しい」という一見至極まっとうな理由に見えるが全くそうではない事実を言い訳に、ひと段落したら本格的に夢を追いかけよう、などと思っていた。
そして、実際にひと段落してみれば、夢を追いかける気力もエネルギーも、すべて燃え尽きていたし、自分の空っぽさに愕然として立ち上がれなくなっていたのだ。
とにかく何かに夢中になりたくて色んなものに手を出していた。水彩画のセットを買ったりギター教室を探したり、なんでもいいからサークルに入ろうとか、FPの資格を取ろうと思い高価な教材を買って三日坊主で夫にきつくしかられたり。
この頃は夫婦げんかも絶えなくて本当につらかったし、夫には本当に申し訳なかった。
なぜここで作品を書こうとか、夢中で読書をしようという選択に至らなかったのか。
そう、完全なる「逃げ」。
『愛を込めて花束を』の歌詞にもある。
分かっていて選びそびれた 臆病のせいでしょ
私は究極の臆病であり、究極のヘタレだった。
そしてもちろんその事実を受け入れられなかった。
今、こうやってnoteに散文を書き散らかしていることはだから、私としてはかなりの進歩である。
「何かを書く」人を作家というならば(私はその定義を使っている)、私は作家になれているではないか!
もちろん、まだまだ出版という次なる目標に向かって延々努力しなければならないのはわかっているが、
あの2012年、2013年の私にもしメッセージを届けられるならこんな言葉で励ましてあげたい。
「どうかそのままもがき続けて」
「間違った道を選び続けて」
「今はつらいけど、あなたはもうすぐ正しい道に出られる」
「そのままでいいんだよ」
ありがとう、Superfly。『愛をこめて花束を』を作ってくれて。
ありがとう、あの頃の私。
踏みとどまってくれてありがとう。