日誌18回目:精力的に動くという理想
こんばんは、さんです。12月に入り、だいぶ寒くなってきましたね。元気にしていますか?
わたしはというと、ほとんど室内から出ていないので、季節をあまり感じていないというのが正直なところですが…苦笑。でも、窓から伝わってくる冷気で季節を体感しています。
また今日は、ある約束に寝坊してしまい、ドタキャンをする形となってしまいました…。12月は、だらだら動画を見る時間ばかりで、かろうじて晩ご飯当番はこなしながら、ほかの人との約束だけは、守っていたのですが、今日はその約束をだらだら寝ていたせいで、寝過ごしてしまい、相手を待ち合わせ場所で待たせ、帰らせる…ということをやらかしてしまいました。
その瞬間恐ろしいほどの嫌な感覚が身体を襲ってきて、罪悪感の闇にのまれそうになりました。が、「そっちはだめだ!」と反射的に頭に言葉が浮かび、今は罪悪感の闇にのまれず、過ごせています。
精力的に動かない=ダメ人間?
こうやって文字化してみると、わたしは精力的に動いていない自分に、恐ろしいほど罪悪感を感じているんだなと知りました。精力的に動かない=ダメ人間だと、思っているのです。私の理想は、「失敗を屁とも思わない、精力的に動きまくる人」なんですよね。これは、社長からの影響だと思います。
確かに、失敗をしてもぜんぜん動じないというか、失敗を恐れずどんどん行動を起こしていく人は、かっこいいと思います。特に私は、衝動的に動くタイプなので、精力的に動いている人と見られることもあり、自分でもそういう性質(行動優位)を持ち合わせているのかなと思います。でも、その性質が今は、まったく発揮されていないとも思うのです。
だから、余計に「前はできていたことが、今はできていない。やりたくてもできない」となっており、自分をダメ人間とより一層思ってしまうんです。「なぜ?」と、自分に問うてばかりの日々がずっと続いている気がします。
あなたは、どうだろう?精力的に動けないことはありますか?そんな自分を責めた経験はあるでしょうか?
「あの頃のように動けない」は当然のこと?
人は必ず変わります。一瞬たりとも同じ時期などありません。これは、わたしが生きてきて、知った真理です。だから、20代30代のころのように、まったく同じ感覚で精力的に動ける状態を再現したいと思うのは、おかしな話なのだと思います。
だから、「あの頃のように動けない」と罪悪感を抱くのは、とんちんかんなことなんだろうなと思いますし、当然、当たり前の現象なのだと思います。普通のことが起こっているのです。
その変化の理由は、体力的なことかもしれないし、精神的なことかもしれないし、なんなら、ネガティブなものばかりでなく、良い理由だってたくさんあるのでしょう。
今は、動かないのが正解
そして、「今は動かないのが正解」「身体や心、世界がそれを求めている」というのが、本当のところなのだと思います。
昔に戻りたいという、よくわからない願望
本当によく思います。「あの頃のように、昔のように過ごしたい」と。今よりも昔の生活に理想を見ているのが、今の私です。今の生活が大嫌いなのです。
でも、世の中はよくできていると思います。その人に本当に必要なものを与えるのが、この世の中の仕組みだと思います。
だから、今私の周りにある人や環境、生活、仕事は、今の私に必須なのもだと思います。
たとえば、わたしなら、おそらく家族との時間を大切にすること、上下の意識を手放すこと、人との繋がりを大切にすること、焦らないこと、お金の管理を学ぶこと、じっくり自分や家族と向き合うこと、ひとつずつ積み重ねることの楽しさ、愉快さ、心地よさを知ること、などをこの環境で、体感することができるのです。実現することができるのです。
わたし自身がそれに目を向けさえすれば。過去でなく、今に目を向けさえすれば。こんなに素晴らしいことを体感できるのに、過去の快楽にばかりに意識が向くというのは、客観的に観察しても、本当におかしなことだなと思います。
それくらい今が嫌なのでしょうね。そして、今が嫌というのは、今の自分に罪の意識を非常に持っているのだと思います。そしてその罪の意識は「こんなはずじゃなかった」という気持ちにかわり、余計に今の環境が嫌いになっていく…。まさに悪循環です。なぜ、こんなに今の自分に罪の意識を持っているのでしょう?
親に養ってもらっているという罪悪感
そのひとつは、金銭のことです。わたしは今親と一緒に住んでいます。光熱費の一部は支払っていますが、家賃や食費は出せない稼ぎの額なので、親のほうが、多く生活費を出しています。このことに対する罪悪感がものすごいあります。
もっというなら、世間から見て「いい大人が、親のすねをかじっている」と見れること、プラス自分もそう認識しているこの状態にも、巨大な罪悪感を持っています。
たとえて言うなら、真っ黒な天井が上からドスンと降りてきて、もう身動きが取れない感じです。もう本当にこのことに関しては、罪悪感が半端ない。自分にそれだけの罪を見ているのです。
でも、この罪の意識を手放すことで、わたしは、もっと自由になれるように思うのです。
親に罪の意識を持つのではなく、愛を見たい
だから、親に半分以上養ってもらっていることに、罪ではなく、愛、感謝の気持ちを持ちたいなぁと思いました。自分への罪の意識ばかりに意識を向けるのではなく、親からの愛に感謝するほうが、気持ち良い時間を過ごせると思ったのです。
そうすれば、もっと気持ちが軽くなり、もっと愉快に生きてゆけるし、毎日が楽しくなるように思います。
別にいいじゃないですか。中年で親に養ってもらっていても。今はそういう時期なのです。親の愛に感謝しながら、近い将来、もしくは、今できることで、親を大切にしていきたいし、みんなで愉快に暮らしていきたい。そんな風に、心から思うのです。
こういうことを書いていると、今でも「そんな甘いこと言ってるんじゃないよ」という批判の声が浮かびますが、そんなものは無視すればいいのです。
親の愛に「ありがとう」と心から感謝しながら、愛されていることを知りなら、今やるべきことに集中したいと思います。
本当にありがとう。いま一生懸命生きている自分にも、親にも、この世界にも。
今世界や与えられているものが、自分を幸せにするものだと気づいていますか?
世界を飛び回りたい、いろんな人に会いたい、立派な肩書(経歴)が欲しい、自分に自信を持ちたい、失敗に恐れない人になりたい、カッコいい仕事がしたい、親に楽させたい、借金を早く完済したい、一人暮らしをしたい、恋人が欲しい・・・・
いろいろな欲求が湯水のように湧いてきます。でも、今はその時期じゃないのだと思います。今それをやっても、わたしは幸せじゃないと世界が教えてくれているのです。私に必要なものは、もう私の手の中にあると、世界は言っている。そこに耳を目を傾けてゆきたいと、こころから思います。
なかなか湧き出る欲に意識がすぐにいってしまうのですが、でも、そればかりに目を向けていてもいっこうに幸せな時間が増えないことに、ようやく心底気付き始めています。
もっと世界から与えられたものを信頼しようと思いました。
あなたは、今世界や今与えられているものが、自分を幸せにするものだと気づいていますか?わたしは、気づけていませんでしたし、まだ心底の実感は味わっていませんが、「どう考えてもそうなのだろう」と、思い始めています。