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分かりやすく歴史シリーズ① 辛亥革命 〜清の近代化政策に対する革命運動の結果〜   

こんにちは
近現代好きのリスです!
今回から歴史シリーズの始まりです!

分かりやすくなるよう出展・参考は絞って書かせていただきます

何故か本文中に写真を入れられないバグ(?)が起きたので写真がないです
これからのシリーズはある種の歴史小説だと思って読んでください(笑)
その代わり、分かりやすくなるよう仕立てたつもりですから、安心(?)して読んで下さい。

すでに日清戦争は終わったものとして話を進めて行くので、日清戦争についてはまたの機会に

それでは始まり始まり〜



 光緒新政

十九世紀の終わり辺りから二十世紀の初めにかけて、清(今の中国)は弱っていた。
そこに欧米列強等が漬け込んで清国内での勢力拡大を狙っている中、清の内部では「戊戌(ぼじゅつ)の政変」といういわゆるクーデターが勃発した。
皇帝の光緒帝(こうじょてい)は幽閉され、クーデターを引き起こした西太后(せいたいごう)が権力を握った。

1901年、西太后は国家権力を行使し、清の近代化を図る「光緒新政(こうしょしんせい)」を行った。
中身は

●西洋に習った新しい軍隊(新軍)の創設
●教育の改革
●科挙(今まで中国で行われて来た官僚になるための試験)の廃止と留学生の派遣
●法律の制定
●商売に関する省を新設し商会や会社の設立を支援する実業振興


など

特に科挙が廃止されたため官僚になるためには海外の留学経験が重要視されるようになり、最大の留学先はたった数年で近代化を成功させた日本だった。
だが、もちろん留学先は文化が進んでいる国々。
光緒新政の目的は清を維持し、高めることだったが留学することで「なぜ今になってこんなことを…」など光緒新政に、清に対する疑問を持つ者も少なくなかった。

 革命運動の本格化


そうして、留学生の一部は清の革命運動に身を投じていく人も増えていった。
その革命運動の指導者の一人が、孫文である。
後の中華民国を建国する人だ。
1894年、孫文は身を寄せていたハワイで興中(こうちゅう)(現代の国民党)を組織し、本格的な運動を始めた。
そして、広東(カントン)にて武装蜂起を計画するが失敗に終わってしまう。
それでも孫文は諦めず、海外に渡った中国人のサポートを受けつつ活動を続けたため、「失敗の英雄」と呼ばれた。

清でお尋ね者になった孫文は日本で亡命生活を送りつつ、日本の革命運動家、宮崎滔天(みやざきとうてん)らの協力を受けながら、広東人を中心とする興中会に湖南(こなん)人を中心とする「華興(かこう)」、浙江(せっこう)人を中心とする「光復(こうふく)」が加わり、孫文を中心に革命運動を進めることとなった。

ちなみに、広東人、湖南人、浙江人は「漢民族」である。

そして、1905年5月20日、東京にて「中国同盟会」なるものが結成される。
同盟会は雑誌「民報」を創刊し自らの主張を広めた。
同盟会の存在意義となる「三民主義」とは以下の三つのことだ。


「民族主義」 異民族が建てた清を打倒、漢民族による中華の回復
「民権主義」 民主制の実現
「民生主義」 土地の平等な分配、資本の節制による国民生活安定


だが、それぞれの革命勢力は独立・独自性が強かったため、孫文のリーダーシップは制限されていた。
そんな中に、戊戌の政変で日本に亡命していた清の政治家、康有為(こうゆうい)と梁啓超(りょうけいちょう)らも加わった。
彼らの勢力の力は孫文らの革命派に匹敵するほどだった。

そして、革命運動に関わる留学生らを取り締まるよう清政府の要請を受けた日本政府が動き出すと、清と革命派らとの対立は誰の目にも明らかなものになった。

1907年、資金問題で光復会が同盟会を去った。
華興会系も孫文を批判し、同盟会は分裂状態になってしまい、シンガポールやペナン(マレーシアの西にある町)などに分散して革命運動を推進していくこととなる。

 清に対する不満の果てに


一方、清内部では立憲制(今の日本の政治と同じ)を目指して改革が行われていたが、1908年11月に光緒帝、西太后と立て続けに亡くなってしまう。
そして、光緒帝の甥で幼い、後に「ラスト・エンペラー」と言われる、清最後の皇帝、宣統帝 溥儀が即位する。

1911年5月に初めて成立した内閣は、満州人の皇族・貴族を中心とした内閣だった。
この内閣の組閣が立憲派の人々を失望させ、君主制支持者までもが清打倒へ傾いていった。

その年内閣は幹線鉄道(主要地点を結ぶ重要路線)を国有化し、外国からの借款(しゃっかん)(国家間での資金の融資)によって鉄道建設を進めようとした。
しかし、諸外国から利権を回収して民営の鉄道建設を行おうとしていた国内の資本家や地方の有力者が強く反発した。
各地で鉄道建設に対する反対運動が起こったが、四川省では反対運動に参加していた人40人が官憲(治安維持を職務とする公務員、警察)に射殺される事件をキッカケに数百万の人々が参加する一大武力暴動にまで発展する(四川暴動)。

一方、光緒新政によって創設された新軍の中でも革命支持者が増えていった。
先ほどの四川暴動の鎮圧を命じられた湖北省の武昌(ぶしょう)にいた湖北新軍では武装蜂起の計画が立てられ、暴動鎮圧が成功したと思われた頃の1911年10月10日、「武昌蜂起」が起こった。
湖北省総督の瑞澂(ずいちょう)は逃亡し、湖北新軍は武昌とそれに隣接する漢口、漢陽を掌握した。

ただ、この蜂起は革命派が直接指導したものではなく、革命派の指導者が武昌にいた訳ではなかった。

武昌の革命派は、湖北新軍の旅団長、黎元洪(れいげんこう)を新たに創設される湖北軍政府の都督(民・軍政の長官)に据えると、清からの独立を宣言した。

武昌蜂起の報は清各地に伝わり、資金を集める為に渡米していた孫文もその事を知った。
清各地で革命派が蜂起し、11月の初めまで清南部を中心とする13の省が清からの独立を宣言した。


1911年は中国の干支でいうと辛亥(かとのい)の年だったので、これを「辛亥革命」という。

この革命運動を鎮圧させる為に、新軍を養成した、当時失脚し、故郷に戻っていた袁世凱(えんせいがい)を呼び戻し、11月1日、総理大臣に任命した。
だが、袁世凱は清の軍事を司る立場であることを生かし、さらなる上の権力を狙っていったのだ・・・


出典・参考
角川まんが学習シリーズ 世界の歴史
⑭ 第一次世界大戦とアジアの動向

wikipedia 瑞澂 湖北新軍 漢民族

見だし画像 wikipedia 辛亥革命

 より


ここまで読んでくださってありがとうございます!
次もこの長さになると思います(笑)
でもここまで根気よく読めたなら次もいけると思います(確証はありません)
次をお楽しみに〜

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