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効率化が全て...?サーモンスープに学んだこと
人生初の長期休暇に入って思ったことメモ。
忙しい毎日を送ってたら、いつも仕事に自分のプライベート時間が圧迫されていることが常になっていた。しかも自分で言うのもなんだが、私は責任感を強く持ちすぎる性分で、優先順位的にはどうしても仕事優先の意識になってしまう。結果、「ここまでは今日やりきらなきゃ…」とか「Teamsで連絡きてるからここまで返信しないと…」とかやってるうちに、20時くらいまで残業してしまうこともしばしば。
ありがたいことにフルタイムとはいえ在宅勤務なので、通勤時間はカットできるがそれでも20時までパソコンに張り付いていると晩御飯の準備はあまり十分にはできない。
20時過ぎに近所のスーパーに行き、30%offになった寿司を買ったり、お惣菜でおかずを増やしたりしながら簡単に用意できるものだけで食卓を埋める。
まるで作業のような毎日を過ごしていた。
このように仕事を中心に生活していると、知らず知らずのうちにプライベート部分は「いかに効率化できているかどうか」で判断し選択して生きていたと思う。誠に勝手ながら、効率化できていることこそ正解であり、それ以外の選択をするのは間違っていると考えてしまっている節すらあった。
例を一つあげる。例えば晩御飯の支度。
晩御飯なんて、私たち(子無し共働き夫婦)はわざわざ野菜やら肉やら買ってきて調理する手間をかけて支度しても、時間も労力ももったいないだけ。スーパーの総菜は値段もそこまで高くはないし、手作りおかずにしても材料の原価は一定以上かかるわけで。金銭的コストもそこまで変わらなかったりする。
材料調達して、調理して、皿に盛って、食後は皿を洗って、汚れたコンロを拭き上げ、キッチンのゴミをまとめて処理して…..
一連の動作が重くのしかかり、「仕事ですでに疲れてるのに、そんなことやってられない」という意識になり、自然とキッチンからは足が遠のく。
一方で総菜代の数百円なんて、共働きでちょっと働けばすぐに稼げるわけだ。
そうなるとスーパーでは売れ残りの総菜からなるべくいいものをセレクトし、いかに簡単に晩御飯を成立させるかという頭ばかりはたらく。
自然と、上記のような思考回路になってしまうのだ。
確かに、今見ても合理的な判断には思えるし間違ってはいないと思う。
だが私はこの発想が「私という人間が合理主義だからだろう」と勘違いしてしまっていた点は、誤りだったと感じた。
これは私の育ち・経験から編み出された私個人の考え方の癖だと思っていたがそうではなかったと気づいたのだ。
今、私は産休という名の長期休暇に入っている。貯めておいた有給休暇もここで一気に消化しているので、出産予定日より2か月半も前から休みに入れている。
これを書いている1/8現在、12月初旬から休みに入って1か月経過したというところだ。
現在私は31歳なので、社会人になって約9年間忙しく働き続けて、初めて1か月もの長期休暇を取得したことになる。
ここで感じた心境の変化として
①最初は役所関係の手続きやら、自動車保険の切り替えなどタスクをこなすのに充ててた。
②それが済んで以降は暇になってしまい、一日中スマホやYoutubeなどを見て自堕落に過ごした。やることが無くなり、時間をもてあましてしまい苦痛に感じる。
③それでもゆっくり余裕を持って過ごす時間、いわゆる「余白」が増えてくると、脳の考え方が徐々に変わってきた。「余白」をちゃんと楽しめるようになってきた。
この③脳の考え方が徐々に変わってきた。「余白」をちゃんと楽しめるようになってきた という部分だが、これまで仕事で忙しい毎日を過ごしていた私の脳はいつの間にか、その忙しさによって思考回路がとにかく「効率重視、合理性重視」になっていたのだと気づかされたのだ。
「効率・合理性重視」だと、少ない時間を使ってどれだけ効率的に時間を使って、どれほどの成果物を簡単に編み出すかが大事だ、という思考回路だ。
その脳が、徐々に「効率・合理性重視ではなく、余白があるんだから非効率なことでも楽しいならやろうよ」と思えるようになってきたのだ。
先述の食事の支度の例をあげる。
「短時間で」「簡単に」「労力を使わず」「お安く」「そこそこ美味い料理」が揃えられるなら、お惣菜が最適解だ。確かに合理的に考えるとそれが正しい。
しかしながら生活に「余白」ができるとどうなるか?
「そんなに効率ばっかりに支配されなくて、好きなようにやってみたらいいじゃないか」とドンと構えられるようになる。
ある日を境に、何かおいしそうな料理をテレビ番組で紹介しているのを観たら、それを私も作ってみたいというワクワク心が芽生えるようになった。
材料を一からスーパーで揃え、普段は使っていない調理器具を引っ張り出して、スマホに記録したレシピを何回も見直して真似してみる…。
これは効率や合理性の側面だけを考えるとほぼ「意味がない」ことになってしまう。
そう、「ワクワク心があって」「作ること自体を楽しめる気持ち」があるからこそこれらの「非効率調理」が初めて意味をなすのだ。
普段は買わない生魚。今回は生のサーモンを購入。鮮魚コーナーはろくに見てもいないので並んでいるものを新鮮に感じた。今日はスウェーデン料理のサーモンスープに初挑戦するので、その他生クリームや牛乳、タイムというハーブも購入。これらを煮て、サーモンの入ったクリームスープを作るのだ。
結論、調理はとても楽しめた。生魚の冷たくフニフニした感覚、生臭い指先、塩コショウの加減を調整しつつも不安になったり、材料を切りそろえて鍋でクリームと煮こみはじめるときに出来上がりを想像してワクワクしたり。
火が通り始めて、いい匂いが立ち込めると同時にスウェーデンの冬の寒い空を想像してみたり。
初挑戦だったが、このサーモンスープは大成功だった。想像通りおいしく仕上がり、夫と一緒に「おいしいね」と言いながら食べることは大きな達成感につながった。
そして、なんて人生は豊かだろうかと思った。
私はこの豊かさを完全に忘れてしまっていたと気づいたのだ。
本来の私は、もっと自分の五感を使って自分の感性を楽しみながら、自分の力で物を作ってみたりしてるなどの挑戦をすることが大好きで、出来上がったら達成感を感じて喜びを感じるという人間だったことを思い出したのだ。
そしてこれは、私だけではなく全人類に共通するものではないかとも思った。
本来、人間はみな自力で新しいことに挑戦したりするなど、能動的に意欲を持って活動することが大好き。子供の姿を見ていてもそうだし、自分が子供のころのことを思いだしてもそうだ。新しい公園に行けば、目新しい色んな遊具で遊んでみたかったし、家では手芸やお菓子作りが大好きだった。近所の子たちを思い出しても、新しい遊びを見つけてはみんなで必死に遊んだものだ。
今、私たち働く社会人の生活を見てみてどうだろうか。
私はまもなく出産ということで、何かと出産・育児関連の商品を物色したり、その口コミをくまなくチェックしている。
本当に便利な育児グッズがたくさん出回っている世の中だと感じた。
育児する人が大変な思いをしないようにと、至れり尽くせりに気を配られたグッズがたくさんある。
栄養価の高いミルクも簡単に手に入るからわざわざ乳房に痛い思いしないでもいいし、哺乳瓶を煮沸消毒する手間が軽減するためにスチームで一気に除菌仕上げができるツールもある。
離乳食作りもそう。昔は必死に育児本を読んで、親は慣れない離乳食を必死に作ったそうだが今はレトルトパウチの離乳食がスーパーでもドラッグストアでもどこにでも多数並んでいる。
このように苦痛や手間を取り除いて、「効率的に」「便利に」育児ができるよう日々進歩していることがよく分かった。
もちろん素晴らしいこの進化の恩恵は素晴らしいことなので、私もありがたく利用させていただくつもりである。
ただ、もし育児をしてみて多少の「余白」を感じられるならーー。
あえて母乳育児にトライしてみるとか、熱湯で煮沸消毒してみるとか。
離乳食を試しに自分で作ってみるとか。
そういうことができるといいなと思うようにもなった。
きっとその「非効率育児」をしてみて感じられる豊かさがあるかもしれないから。
昨今、XなどのSNSを見ていると
・完ミ(赤ちゃんに母乳ではなくミルクだけを与える)か完母(母乳のみで育てる)か
・離乳食を手作りするか、ベビーフードと呼ばれる既製品レトルトパウチを用いるか
など、各派閥間での論争がしきりに行われることがあるようだ。
これについて、余白があまりない人は「効率重視」で正しさを主張する。だからより合理的に方の選択肢に軍配が上がる。
母乳の方が母親の免疫が子に与えられるからいいとか、ミルクの方が栄養が調整されていて子の発育にいいとか。また母乳は調乳や哺乳瓶消毒の手間がないとか、ミルクは保育園に預けるなど母子が離れても問題ないので職場復帰を前提に考えると合理的とか。そういう土台での議論がなされる(なお、両者メリットデメリットがあるので結局結論は出ない)
私も従来のままだと、いわゆる効率脳だったので上記のような議論を頭の中で同じように繰り返してしまっていただろう。世のお母さん方も同じく、忙しい毎日を過ごしているので同じく効率脳で考えることになっていると思う。
ここに、もし「余白」があったなら。
母乳を与えるという経験をしてみたいなとワクワクしたり、離乳食も一通り作ってみて、どんだけ大変か知りたいなと興味を持ったり。
余白を楽しむこともできるのかなと思った。
とはいえ、実際に出産してみて自分がその余白を持つことができるのか。
それ次第なので今時点でどうなるかは全く分からない。
実際に余白が無いようだったら、ある程度優先順位をつけて効率化できる箇所は効率化させていかないとパンクしてしまう訳なのだから。
特に出産後は余裕がなくなる人が多いときくので、ここは無理はしない方がいいのは薄々気づいている。
そして人間のキャパシティは思ったよりも個人差がある。他人が大丈夫でも自分は大丈夫じゃない時がある。自分で自分のキャパシティを見ながらの余白調整が大事なのだ。
誰にでも共通して「これが正しい」なんてものはない。
(特に自分の場合はキャパシティの小ささが目立つので、絶対に無理はしないようにしないといけないなと自戒の念を込めて記載。元々、たかだか在宅ワーク一つでパンクしていたのだから…)
以上長々と書いてしまったが、今日私がメモしておきたいのは下記だ。
「今自分が正しいと思っていることは、余裕がない効率脳で考えた結果なのではないか?もしそうなら、まず先に「余白」を作ってみて、効率脳の呪縛を解いた後に自分がどう思うかを再確認した方がいいのではないか?」と自分に問いかけるようにしたいという点だ。
本当の自分はどこに価値を置くのか。自分でもしばしば見えなくなることがあるというのが今回気づけて良かった。
忘れないようにしていきたい。