屋上のバイオテロ -後編- 【短編小説】
1コール。2コール。3コール。
いくら電話をかけようとしてもミヤノは出なかった。俺は授業を抜け出して、学校の敷地の外にいた。
近所の神社で何度も端末とにらめっこしては電話をかけた。
どこかで俺はミヤノが今回の事にかかわっていない可能性を考えていた。
そうであってほしい、という気持ちと事実はいつだって矛盾する。そういう故事や教訓がきっと教科書に載っている気がしたが、そんな感情を追い払いたかった。
俺はミヤノと一番の友達だと思っていた。少なくともテロリズムを語るミヤノは俺しか知らないはずだ。だったら、俺にしかあいつを救えないんじゃないか。もしここで何もできないんなら、あまりに友達甲斐がないってものだろう。
そう思って、ふと思い出した。
そういえば、ミヤノの家の執事の女性。あの人の連絡先をもらったんだった。もしかしたら、何か知っているかもしれない。
メモに書いてあった電話番号は自分の端末に記録してあった。
電話をかける。1コール、2コール、3コールと数えると、聞き覚えのある声が電話に出た。ミヤノの執事だった。
「はい、ハマサキです。どちら様でしょうか?」
そういえば、浜崎という苗字がメモに書いてあったと思いつつ、俺は返答する。
「トキタです。この前ミヤノのプリントを届けた……」
「あら、こんにちは。どうしましたか?」
「えっと……ミヤノ、いや、マイさんは家にいますか!?」
俺の焦りが電話口に伝わったのかもしれない。浜崎は怪訝な声で、
「どうかしたの?」
と言った。
急いで電話をかけたので俺は何を訊けば適切な情報が得られるかを考えていなかった。
どう説明しようか迷っていると、電話から声が聞こえた。
「お嬢様は今日久しぶりに学校に行くと言ってました。ここ最近ずっと浮かない様子でしたが、今日は少しだけ上機嫌でした」
「え」
「私には家の中でもお嬢様しか知りません。ですが、家の中でめったに笑顔を見せないお嬢様が、今日は笑っていました」
浜崎の声は徐々に熱を帯びていく。
「お嬢様は、家でずっと生きづらそうにしていました。だから私も心配でした。ですが何もできることがありませんでした。私はただの雇われ人ですから」
俺はミヤノが想像していた以上に鬱屈をため込んでいたことを知った。浜崎は続けて言った。
「お嬢様の機嫌がいい理由は私には分かりませんでした。でも、今思えば、お嬢様が上機嫌な時は、トキタ君、君と会うときだったと思います。私にも一度だけ、お嬢様が話してくれたんです。なんだか変な奴がいるんだって。学年で一番勉強ができるのに、全然頭が悪い奴って。嬉しそうに。君のことでしょう?」
神社はとても静かで、境内に植えられている木々は太陽を遮った。
「お嬢様はとてもいいひとです。あんな家庭にあって、なんであんな風に善良さを保てるのか私には不思議でした。お願いします。彼女を助けてあげてください」
「ミヤノは……」
「私にはお嬢様がどこに行ったのかわかりません。学校に行くと言ってましたがそれが本当かどうかも。でも君の知っているところじゃないでしょうか?」
彼女に礼を言って、俺は電話を切った。
薄暗くて明るい神社。学校はすぐそこにだが、木々や社殿で見えなかった。そして、俺たちがよく昼飯を食っていた屋上も、ここからはよく見えない。
第六感なんて言うもんじゃない。単なる山勘、単なるあてずっぽうだ。それでも確信に近い思いがあった。
◯
学校に戻って、階段を上る。今はまだ授業中だ。
踊り場を通り過ぎる。そこは最初にミヤノと話した日にコーヒーを買った自動販売機があった。
俺は小銭を取り出し、冷たい缶コーヒーを二つ買う。
屋上に出る扉を開ける。
青い空が広がっていた。
そして、フェンスに寄り掛かって校舎の外を眺めているミヤノがいた。
「よう」
ミヤノが振り返った時、俺は持っていた缶コーヒーをゆっくり投げた。
少しあわてて、ミヤノは缶をキャッチする。
「危ないな」
憎まれ口をたたくミヤノに俺は言った。
「いつぞやの詫びの品だよ。まあとっとけ」
「トキタってホント自分の都合優先だよね。まったくさ」
ミヤノは少し笑っていた。
俺はミヤノの笑顔にはどことなく悲しそうなものがあることに気が付いた。
「きっと、来てくれると思ってた」
迷いが頭の中を渦巻いていた。俺はミヤノをどうしたいんだろう。どうしたらミヤノを救えるんだろう。いや、そんな気持ちは的外れなんだろうか?
俺はしばらく何も言えなかった。自分を律せないやつは他人のことに首を突っ込んじゃならない、俺は俺の問題で忙しい、世間の問題は俺から遠すぎる。全部俺が言っていたことだからだ。
ようやく言えたのは、つまらないこんな一言だった。
「こんなこと、やめろよ」
ミヤノは笑顔のままだったが、少しだけ泣きそうな顔をしたような気がした。
「……お願いだから……そんなこと、言わないで」
視界一杯に広がる青色に、突き抜けるような、なのにどこか優しい風が吹いた。
くそ。なんで、こいつと悲しい話をするときは、いつもきれいな風景なんだろう。
「トキタ。お前にそんなこと言われたら、私は、どうしたらいいか、わかんなくなるんだ」
ミヤノの頬がわずかにきらめいた。それに気が付いたのに、俺は優しい言葉をかけることができなかった。
「お前は、なんでこんなことをするんだ」
ミヤノは俺をにらんだ。目が濡れていた。
「浜崎さんとしゃべったか?」
「ああ」
「私の両親のことは訊いたか?」
俺がかぶりを振ると、ミヤノは言った。
「私の両親は二人とも医者だ。世間的には立派な職業だよ。だけど、5分とあの家に居たらわかる。二人とも、俗物で、どうしようもない悪党だ。目下のものにはカスみたいに扱って、何一つ誇りなんてない。一度幼いころ、私は父親のいる病院に行ったことがある。そこには看護師が何人もいたけれど、一人の看護師をひどく叱りつけていた。若い、美人の看護師だ。患者に渡すはずの薬をその看護師が忘れたっていうんだ。でも、私は知っていた。父さんは看護師にそんな指示をしていなかったんだ。別の医者に父さんはこういってた。『看護師を適当に叱りたおして、少し優しくすればすぐなびくんだよ。この前も適当なミスをでっち上げて……』。笑えるだろ?これが世間で言う立派な職業なんだ。その後父さんは無事、その看護師とヤッたんだってさ」
だんだん勢いをなくしてミヤノはほとんどささやくように言った。
「父さんは私に言うんだ。『勉強しろよ、マイ、勉強して地位を得れば人はいくらでもいうことを訊く。いいか、もし地位を得られなければ不当にうばわれるんだよ』って。母さんも同じだった。誰も私に人にやさしくしろとか、困っている人がいたら助けてやれとか、そんなことを言ってくれなかった。わかる?私の周りの大人は、良心なんて一ミリも意味がないから捨てろっていうんだ。ずっとずっと。ある日、父さんは家でお酒を飲んでいた。酔ってたんだ。そして私に父さんが担当していた患者のことを話し出した。医療ミスをしたんだって。失敗するはずがない手術で。でも、それは父さんのせいになっていない。その若い看護師のミスになったんだって。信じられなかった。父さんは人を殺して、それを他人のせいにしたんだ」
なんでこんな時に、何一つかける言葉は浮かばないんだろう。
「ただ、真っ当に生きろって誰かに言ってほしかった」
俺だって、自分のことばっかりだ。
俺だって、金と名誉が欲しい。
俺だって、もしかしたら人殺しの罪を他人に擦り付けるかもしれない
「……トキタ。お前は優しいよな。醒めたこと言うくせに、人のこと構っちゃってさ」
なんで、俺にはもっとましな言葉が思いつかないんだろう。
「……いまからどうするつもりなんだ……」
「バイオテロだよ。炭疽菌を分離培養して、乾燥凍結した。この時ばかりは医者の娘であることに感謝したね。必要な知識はあったし、それなりのお小遣いも」
「両親に送るつもりか」
ミヤノは上を向いた。その虚空に何かあるわけじゃない。ただ上を見ていた。
無音がずっとなり響いていた。
俺はいつだって他人の問題に深入りしなかった。
ミヤノが俺を優しいといったのは、きっと俺が人に深入りしないからだ。
誰にも深入りしなければ、誰にでも優しくできる。
俺は自分を丸ごと誰かを助けるために放り出したりはしなかった。
安全な位置からしか俺は手を差し伸べない。
ミヤノの気持ちが分からなかった。
ずっと、ミヤノが抱えていたものを知った今でも、解らなかった。
いくら聞いても、ミヤノにとどく気がしなかった。
誰かを救うことなんて、きっと思い上がりなんだろう。
ミヤノを救うなんて。
俺は正直に自分の気持ちを言った。
「わからない」
息が苦しかった。
俺にそんな資格はない気がしたが、俺は悲しかった。
誰かの気持ちを理解できないことがこんなに悲しいことだとは、思わなかった。
校舎の外には街が広がっている。俺たちはまだ高校生で、この先の人生は外にいくらでも出ることがあるだろう。きっと今見渡せる範囲だけが世界の全部じゃないはずだ。
そんな風にも言えた。さも分かった風に。だけれど、それがいかに恥ずべき代物か俺には少しわかった。
ガシャン、と鳴った。
見るとミヤノがフェンスから体を離して、こちらに近づいてきていた。
ミヤノの吐息が聞こえるほど近くまで近くにに来て、声が聞こえた。
「トキタ……私の動機は不満から出たものかもしれない。でも、私の大義だって本物なんだ」
自分の心臓の音が聞こえた。
「正当化されただけの大義かも知れないけど、それだって本物なんだ」
自嘲じみた声だった。もし、本当にお前が自分を正しいって思えるなら。
「私を嗤うか?でもこうしなきゃ」
なんでこんなに悲しそうなんだ。
「私は私を誇れない」
視界一杯の青空。
吹き抜ける優しい秋風。
缶コーヒーの冷たさ。
友達の、多分親友の、悲しそうな声。
それらで胸がいっぱいになってしまって、俺は動けなかった。
ようやく、動けるようになって、俺は手を伸ばした。
でも、その先には、もう誰もいなかった。
◯
その後の日々は、あまりにあっけなく過ぎた。
ミヤノはしばらくして、突然転校してしまった。挨拶は何もなかった。
バイオテロは結局俺の耳には入ってこなかった。
医者が炭疽菌で死亡したという記事は全く報道されなかった。
もしかしたらミヤノは途中で実行を辞めたのかもしれない。
そんな希望を持ったが、それが自分に言い聞かせるためのものだという事は分かっていた。
多分、あいつはやめないだろう。
いや、あるいはそれも俺の願望なんだろうか。
いつまでたっても気持ちを整理することができなかった。
そんな風にしているうちに、俺は高校を卒業し、大学に入った。
友達は少なくなかったし、ときには恋人もいた。
それでも、親友と呼べる奴も、本当に愛しいと思える人間もいやしなかった。
そのまま大学を卒業して、いい会社に入った。世界でも十指に入る大企業だった。
俺は同年代の人間の何倍も金を稼いだ。
時には何十倍も。
母親にも楽をさせられるようになった。
弟もいい大学に入れた。
金を稼いだら解決した問題はいくつもあった。
それでも、俺は心から幸せを感じることができなかった。
◯
ある朝、会社へ行く途中だった。ビル群に臨んだ駅から降りて、横断歩道で信号が変わるのを待っていた。この道を通い始めてから、もう7,8年は経つ。俺の時間はいつもあっけなく過ぎるようにできている。
初夏でスーツを着ているのがばからしくなるくらい暑かった。桜が散るのも早かったし、もしかしたら地球温暖化が進んでいるのかもしれない。
このビルの森みたいな都会をいくら歩いても同じ風景が見えるように思えた。
最先端の、一番流れが速い街にいるのに、変なことを考えるもんだ。
いつも通りの雑踏。額に大粒の汗がにじむのを感じた。
信号待ちの雑踏の中には、俺と同じように感じている連中がわんさかいるんだろうな、と思った。
この時間のこのあたりは勤め人ばかりいるところだ。時々ブロンドや茶髪が見えるが、そこにいる人間は黒髪の人間がほとんどだった。
信号はまだ、赤のままだ。
いつもこの彩度の低い景色にはうんざりする。
それに、俺は自分が勤め人になって、人間というやつがどれだけ身勝手で
モラルがないかを身をもって経験することになった。
学生時代には性格の悪い奴というのはあまりコミュニティに居なかった。そういうやつは遊び友達としては面白くないから、自然と人が離れていく。
だが、会社勤めだと性格が悪かろうが何だろうが、付き合わねばならない。
そして中にはとんでもない俗物の馬鹿がいるものだ。
もっと言えば、人を踏みにじって気にしない悪党も。
気分が重くなった。ここ何年かは気が晴れたことがない。
そんなことを考えていると、雑踏の黒髪の中に、青色の髪が見えた気がした。
アディダスのジャージを着ていて、全部の手の指にシルバーアクセサリをしている。
見覚えのある少女だった。
青色の髪の少女は、信号を無視して横断歩道を走り抜けた。
あぶない、と俺は言いかけた。
少女が通り抜けるのを見て、車がどんどん急ブレーキを踏んで、停まっていく。
クラクションが交差点に鳴り響いた。
そして、横断歩道の向こうで、少女は手を振った。
「トキタ!いこうよ!」
信号は赤から青に変わり、交通は乱れずに、歩行者が横断歩道を通る。そこには青色の髪も、急ブレーキの車も、クラクションもなかった。
周りの人々がどんどん横断歩道を渡っていく。
俺だけそこに取り残された。
いつまで俺はこうしていただろうか。
やがて、俺は自分の立っている地面に水滴がぽたぽた落ちているのを見つけた。
そこに落ちていたのは、汗だけじゃなかった。
◯
ミヤノ、おれは大人になって、汚いものをたくさん見たよ。
お金があっても、名誉があってもお前の言う通り関係なかったよ。
俺が手にしたものは、俺を幸せにはしなかった。
あのときはわからなかったけどいまならわかるんだ。
いまなら、ミヤノが何を思っていたか、少しはわかるんだ。
お前がいなくなって、誰とも仲良くなれなくなったよ。
お前がいなくなってすごく寂しんだ。
なあ、もう一度お前に会いたい。
もう一度、いろんな話をして欲しい。
屋上でバイオテロの話をしてたあの時みたいに、たくさんの話を。
ー了ー
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