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コンプレックスとの向き合い方

人の中にいると、ふっとコンプレックスみたいなものが顔を出すことがこの歳になってもたまにある。
どこからかムクッとこの感情が湧いてくると、それは自分の中で確かに感じているものだから、どんより重たい気分に囚われてしまう。


考え込んだところで結局はその思いを抱く自分を感じ、その時はどっぷりその感情が頭の中をぐるぐるするのを感じ切るまで向き合って、味わい切るしかないと思っている。


その時間ていうのは勿体ないと言われても、その得体の知れない、どこからかふいに顔を出した劣等感みたいなものに支配されてしまうけれど、そのどんより重たい気分に抗うことはせずただ一緒にいて、独りボーっとするしか仕方がないと思っている。

たしかにそのときコンプレックスみたいなざわざわした〝気分〟というのはやってきていて、それはまるで私の持病のリウマチが気圧の変化の異和感に体の部位が先に反応し、感じてしまうようなそれと似ている。


楽天的にカラッと捉えられるほうがいいのはわかっているけど、そういう気分に囚われてしまう時はできない。
どっぷり悲観的な気分に浸かってしまっている私をただ感じている。


この私の根っからの暗さや存在の不安はどう扱うべきものなんだろうか。


たしかにそれは私の中にある。
向き合う。一緒にいる。
いるね、あるねと認めてはいる。
時々、しんどいなと思う。自分でもめんどくさいなと思う。
だけど、たしかにそれは私の紛れもない一部分なんだろう。

そのせいでというだけじゃないけれど、その晩はやろうと思ってたことに取り組めなかった。



しばらくはしょうがないので、どっぷりその気分と一緒にいて味わい切ったら、もういいよねって気持ちにもなってきた。

そんな〝今日〟だったけど、やっとネガポジ変換で、よかったこと、嬉しかったこと、笑えたこと、有り難かったこと、今少しでもいい気分になれることなんかに目を向けられそうな気分になってきた。

ドンマイ、自分。
ドンマイ、わたし。

そうしていたらネット上でこんな文章を見つけた。今日の私へ贈りたいと思った。

ありのままの自分でいる人は信頼されます。裏表がなく、本当にその人が見えるし、他の誰かになろうとしていないから。

素の自分を見せるのはリスクを伴います。おかしいと言われたらどうしよう、(変わってると)笑われたり、バカにされたらどうしようと不安になります。

でも不安に負けてしまうと、自分を偽り、演じ続けることになります。それは自分自身を傷つける行為です。そしてまわりの人も傷つける可能性があります。

不安(や弱気)に打ち勝って、ありのままの自分でいられたら、信頼されます。まわりの人と、もっと心が通い合います。

自分ではない誰かにならなくてはならないというプレッシャーを感じることもありません。(カッコつけなくてもいいです)

(いつもそんなにうまくいかないのもあるあるだし)人生は試練に満ちていて、大きな試練があれば、小さな試練もあります。
乗り越えられると、とてもいい気分になれますが、なかなか乗り越えられないときや、敗北を認めなくてはならない時も(あるあるだけど)そんな時にもやはり同じくらいの学びがあります。

困難を乗り越えようと努力を重ね、うまくいかなくて、それでもがんばり続けたときのことを思い出してみよう。
立ち上がり、もう一度挑戦した自分自身について、何か新しく知ったことはありますか?どんなふうに私は成長できたでしょうか?
今日はまた、あなたの力を高める第一歩を踏み出しましょう。
(したことないことやってみよう。
 したことないならやってみよう)

(*カッコ内は私の想いの加筆です。)


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劣等感というのは育ててくれた親から知らず知らずのうちに植え付けられたものらしいですね。
そのまた親もその親から同じように劣等感を植え付けられて、、、またその親も、、という劣等感の負の連鎖はとても厄介なものだと知りました。


はじめに言葉ありき、コトダマの力を利用するといいと斎藤一人さんが仰っていました。
斎藤一人さんの提唱する天国言葉をひたすら自分にも唱えることで、自分の心の穴を埋めるといいみたいです。

《天国言葉》
ツイてるー♪ うれしい♪ たのしい♪
しあわせ♪ ありがとう(^^)
感謝してます 愛してます 許します


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大元の自分をそのままで尊重🟰愛すること。
まず自分をそのままでOK、完璧じゃなくたっていいからそのままの自分を尊敬して、まるっと愛すること。


‥‥それが一番難しかった私の半生だったけど、今日もコトバのチカラで自分を育て直している。